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第25課 律法と福音


 神は人間が生きていく道として律法をお与えになりました。それは「幸福な生き方」として第1巻で学んだ十誡です。十誡は神の性質を土台とした愛の戒めで、この世界の不変の原則です。これは神がこの世界を支配なさる枠組です。この枠組の中でだけ人間は生きることを許されているのです。
はじめにつくられた人間はこの律法を守ることができました。しかし罪をおかした人間には、悪への傾向ができ、善を行いたい、神の戒めに従いたいと思っても自分の力でそれができなくなりました。
 エレミヤ書13章23節には「エチオピヤびとはその皮膚を変えることができようか。ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる」とあります。
 このような人間が、神の恵みによって、行いなくして救われるという福音と、神の律法を守ることとは、どんな関係にあるのでしょうか。十字架があるから神の律法である十戒はもう不要になったのでしょうか。この課では律法と福音の関係について考えてみたいと思います。


1.福音

 神の律法である十戒は出エジプト記の20章に書いてあります。エジプトに移住して、まことの神を知らない異教徒の間に生活しているうちに、神の律法がはっきりわからなくなったイスラエル人に、シナイ山においてあらためて十戒が与えられました。しかし神の律法は世のはじめからありました。律法がなければ罪はわかりません。アダムやエバが罪を犯したというのは神の律法があったからです。
この神の律法は善悪の標準を示すとともに人間に生きる道を教えるものでした。そしてはじめの人間は神の律法に従って生きることができたのです。
 しかし人間は、悪魔の誘惑をうけて、あやまった道をえらびました。罪を犯した人間はもはや自分の力で善を行うことができなくなり、滅びるものとなりました。
キリストは十字架の死によって、人間の罪の代価を払って下さいました。それで悔い改めてキリストを救い主として信じ受けいれるならば、罪はゆるされ、人間は神との本来の関係に回復されます。さらに神は人間が神の子としてふさわしく生きていく力も与えて下さるのです。ヨハネによる福音書1章12節「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」とあります。
 人間がいかにして救われるかについて自力か他力かという2つの考えがありました。すでに創世記の4章にそれがあらわれています。アダムとエバの2人の子供カインとアベルが神にささげものをしたのですが、カインは自分がつくった「地の産物」を供えものとし、アベルは小羊をささげました。小羊は私たちの罪のため身代わりの死をとげられたキリストをあらわすもので、アベルは来るべきキリストの十字架による救いにたよったのですが、カインは自分の力にたよったのです。しかし人間は自分の力で救いをうることはできません。
 イスラエル人がエジプトから脱出してカナンへ旅したとき、荒野で罪を犯し、神が保護の手をとり去られたので毒へびがでたことがありました。このへびはそれにかまれると激しい炎症を起こして死ぬので、火のへびと呼ばれていました。多くの人々がこの毒へびにかまれて苦しみました。そこで人々は神の前にへりくだり助けを求めたのです。
 神はモーセに本物に似せて青銅のへびをつくり、それをさおの上にかけておくようにといわれました。このへびを見上げる者は助かるというのです。早速彼らは言われた通りにしました。そしてへびにかまれたものは、この青銅のへびを見上げよ、そうすれば救われるという希望のしらせが、人々につたえられました。
 すでに死んだ者も多くいました。また青銅のへびを見上げただけでいやされるということを信じないものもいました。しかしこれを信じて一目でもみた者はいやされたのです。
 この出来事を用いてキリストは、人がいかにして救われるかを説明なさいました。ヨハネによる福音書3章14、15節「そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子〔キリスト=著者注〕もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」とあります。
 人々は自分の力でへびの毒からまぬがれることはできませんでした。いやすことができたのは神だけです。しかし彼らは青銅のへびを見なければなりませんでした。それは、神がそなえて下さった救いに対する信仰をあらわさなければならなかったということです。
 それと同じように私たち罪人も、十字架におかかりになったキリストを救い主として見上げることによって生きることができます。十字架の犠牲に対する信仰によって罪はゆるされるのです。私たちの行いによるのではありません。キリストだけが私たちの救いののぞみです。


2.信仰

 あるとき12年間不治の病に苦しんでいた婦人がキリストのところにきて、群衆の中にまぎれこんで、うしろからキリストの衣にさわりました。それはキリストがいやして下さることを信じてした行為でした。そして直ちにいやされました。キリストは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」(マルコによる福音書5章34節)といわれました。キリストにふれたのは彼女1人ではありませんでした。しかしその人々には何も起こらず、この婦人だけがいやされたのは、彼女の信仰によるものでした。
 信仰というのはただ頭でキリストが救い主であると思うだけでは不十分です。キリストを救い主として受けいれ、キリストに信頼しまかせなければなりません。ヤコブの手紙に「あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている」(2章19節)とあります。ほんとうの信仰は行いをともなうものです。
 あるとき、ナイヤガラの滝の上に針金をはって、その上を1輪車に人をのせて渡るという曲芸師がいました。それを見にきた人々は、そんなことができるはずはないと思いましたが、その中から「私はできると信じる」という人があらわれました。いよいよ渡るときになって曲芸師は、「渡ることができる」といった人に、「ではこの車にのって下さい」といいました。その人はのることができませんでした。それは彼がほんとうに信じていなかったからです。ほんとうに信じていればちゅうちょせずのったはずです。それと同じように信仰にも行為がともなってくるはずです。
 キリストを信じる信仰は、キリストを自分の救い主としてうけいれ、キリストに従う心をともないます。自分の力ではできませんがキリストに頼り、神の力をいただいて神のみ旨である律法に従う生活にはいるのです。


3.神の律法—十戒

 クリスチャンの中にも律法は十字架によって廃せられたという人がいます。恵みによって救われるので律法はいらないというのです。しかし聖書は神の律法について、「あなたの正しいおきてのすべてはとこしえに絶えることはありません」(詩篇119篇160節)。「あなたのもろもろの戒めはまことです。わたしは早くからあなたのあかしによって、あなたがこれをとこしえに立てられたことを知りました」(同151、152節)といい、神の律法が永遠に変わらないことを述べています。
 キリストご自身も、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の1点、1画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイによる福音書5章17、18節)といわれました。
またご自分で律法を守られたことについて、「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」(ヨハネによる福音書15章10節)と書いてあります。
 使徒ヨハネは、「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」(ヨハネの第1の手紙2章4節)といいました。
また初期の教会の有力な指導者であったパウロは「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」(ローマ人への手紙3章31節)と書いています。
 聖書全体を通じて十戒が廃せられたことは、どこにも書いてありません。むしろ十字架が必要であったのは、律法を変更することができないからでした。律法は神の性質が土台になっていて、不変のものです。


4.廃せられた律法

 エペソ人への手紙2章14、15節「キリストは…ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである」とあります。またコロサイ人への手紙2章にも同じような言葉があります。ここで廃棄された律法というのはなんでしょうか。これらの手紙を書いたパウロは、ローマ人への手紙の中で、福音に対する信仰は、「律法を確立するのである」といっていますから、十戒が廃棄されたのでないことは明らかです。それでは廃せられた律法というのはなんでしょうか。
 旧約聖書をしらべると、律法には2つあることがわかります。1つは十戒でこれは不変の律法です。もう1つはイスラエル人の宗教的儀式や市民生活に関する律法でした。儀式に関する律法は、キリストの賄罪(キリストが罪人の身代わりとなって十字架にかかり罪のおいめを支払って下さったこと)の計画とその意味を教えるためのものでした。したがって十字架が実現したあとは必要がなくなり廃せられました。エペソ人への手紙やコロサイ人への手紙に書いてあるのはこの律法なのです。もっともこの律法を研究すると贖罪の意義をこまかに知ることができるので有益です。またイスラエル人の市民生活に関する律法は、時の推移とともに当然変わってくるものです。
 聖書を読むときは、前後の関係をよくみて、律法といってもどの律法をさしているのかをしらべて正しく理解する必要があります。


5.服従の生活

 十戒ははじめ善悪の基準を示すとともに、それによって人間が生きていくべき道でしたが、罪がはいってから人間は自分の力で律法を守ることができなくなりました。罪がはいってからも十戒は善悪の基準を示す律法であることに変わりはありませんが、人間はもはやこれを自分の力で実行することができなくなったので、神は別の方法で人間が生きていくことができるようにして下さいました。それは神の恵みによる福音です。
 これは新しい契約とよばれていて、へブル人への手紙8章10節に、「わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」とあります。
 ここでは神が人間の弱さを補い、神の律法を愛し、これを守る力を与えて下さるのです。自分の力では神に受けいれられるようなことは何もできません。しかしキリストの愛がわかると、神を愛しキリストに従いたいという気持ちが起こってきます。
 キリストは「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」(ヨハネによる福音書14章15節)といわれました。また「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である」(同21節)ともいわれました。
 私たちはキリストの助けによって喜んで神の律法を守るようになります。このようにして、キリストとともに歩む者に、律法の要求している正しい行いがあらわれてきます。ここにクリスチャンの最も充実感のある、罪に勝利した生活があるのです。
 キリストの十字架による罪のゆるしをいただいた者が特に注意しなければならない点は、自分の力で神の律法を守ろうとすることです。これは人間には不可能なことです。外面的にはある程度できるかも知れませんが、キリストをはなれて人間がすることはすべて、利己心や罪にけがれているのです。
 しかしそれと同時におちいりやすいあやまちは、キリストを信じれば、神の律法を守らなくてもよいという考えです。恵みによって救われるのだから、律法の行いは全然関係がないと思うことです。聖書には「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである…決して行いによるのではない」(エペソ人への手紙2章8、9節)とありますが、また「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」(ヤコブの手紙2章17節)ともあります。律法を犯したために滅びるようになった人間は、神の恵みによりキリストの十字架による罪のゆるしを、なんの代価も払わないでいただいたあと、キリストの助けによって、律法を守る生活にはいっていくのです。キリストに服従していく決心をいつももっているならば、「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」(コリント人への第1の手紙15章57節)とあるように、キリストは必要な助けを与えて下さるので律法を守る愛と奉仕の生活にはいることができるのです。




第25課 復習問題


※問題をクリックすると解答が開きます。

答え:エチオピア人はその皮膚変えることができようか。ひょうはその斑点変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたもを行うことができる」(エレミヤ書13章23節)。

答え: 地の産物ー自分の力に頼った、子羊ーわたしたちの罪の身代わりの死を遂げられたキリスト

答え: 「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」

答え: イスラエル人の宗教儀式や市民生活に関する律法

答え: キリストの助けによって、喜んで神の律法を守ることである

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