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第29課 現代の使命Ⅱ-審判の時


 ある青年が「神を信じないで自由勝手にふるまっている人が長生きをして栄えたり、神を信じてまじめで立派な人が早死にしたりするのはどうしてですか」と質問しました。
 「人生は不公平である」という感じをいだく人がいるのは昔も今も変わりはありません。しかし人間の幸・不幸を私たちが判断するのはむずかしいことです。ローマ人への手紙8章28節には「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」とあります。全知全能の神は、私たち一人一人の必要を知っておいでになるので私たちが神に従っていけば、最善の道をそなえて下さいます。
 悪にはしる人にも、神はあわれみの心をもち、あらゆる機会を通して正しい道にかえるのを待っておいでになります。しかし悪は永久にゆるされるのではありません。ある時期がくると人間はすべての行動に対して責任を問われます。すなわち審判の時がくるのです。


1.アサフの歌―詩篇73篇

 「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかつて、まことに恵みふかい。しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない。それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている。彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている」(1-7節)
「見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる」(12節)

 悪人が栄えるのを見たとき、この詩篇の記者は悩みました。しかし彼が、人類を救う神の計画と、その最後にくる審判の場面をみたとき、悪は必ず罰せられ、滅ぼされることを知ったのです。
 「わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう」(17-19節)
 神の聖所というのは、人間の罪に結末をつけるところです。何ものも神の目をあざむくことはできません。
 「神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」(伝道の書12章14節)と書いてあります。
 そこでパウロは「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」(ローマ人への手紙12章19節)といいました。神の支配から人間はのがれることができません。必ずさばきによって善悪の結着がつけられるのですから、不公平にみえる人生の出来事にも心を動かす必要はないのです。


2.聖所

(1)聖所の儀式

 神は十戒をモーセにお与えになったあと、聖所をつくれと指示なさいました。聖所は2つの部屋からできていて、これを聖所と至聖所といいました。ここで行われた儀式は、贖罪の計画の全貌を示すものでした。
 そのうちで重要なものは、罪を犯した個人のための儀式でした。罪を悔い改めた者はささげものの動物を聖所の入り口にたずさえてきて、その頭の上に手をおいて罪を告白し、こうして象徴的にその罪を彼自身から罪のないいけにえの上にうつします。それから自分の手でその動物を殺しました。聖所の儀式をつかさどる祭司はその血を聖所と至聖所の間の幕の前にそそぎました。これはキリストの贖罪をあらわす型で、罪はキリストの血によってゆるされることを示しています。そしてそそがれた血によって罪は聖所にうつされたわけです。
 ユダヤ暦の7月10日はあがないの日と呼ばれ、この日には至聖所で特別の儀式が行われました。このときは2頭の山羊をえらんで、その中の1つを主のためのささげものとし、他の1つをアザゼル(悪魔)の代表にしました。儀式をつかさどる大祭司は主のための山羊を殺してその血をもって至聖所にはいり、十戒がいれてあった箱の上にそそぎました。
 至聖所からでてきた大祭司は、アザゼルを代表する山羊の頭に手をおいて、イスラエル人のすべての罪をいいあらわし、定めておいた人にわたして荒野につれて行かせます。山羊は人里はなれた荒野で食物も水もなく、やがて死ぬのです。
 この日人々は聖所のまわりに集まって、深く自分の心を反省し、すべての罪を悔い改めていることをたしかめました。もし悔い改めていない罪があれば、その人はイスラエル民族のうちからのぞかれたのです。

(2) 審判の型
 
 あがないの日に行われたこの儀式は、私たちが悔い改めた罪が吟味されたあと天の記録から完全に消し去られることを示しています。これを調査審判といいます。この聖所の儀式は、現在天において行われているキリストの働きの型でした。昇天なさったキリストは、私たちが罪を悔い改めるとき、御自分の血によってきよめて下さいます。そしてある時期がくると、あがないの日に行われていたように、天の記録にあるすべての悔い改めた罪をしらべて最後に悪魔におわせられます。すべての罪はキリストによってあがなわれますが、悪魔は罪の創始者であり、人をいざなって罪を犯させたのでその責任を問われるのです。
 あがないの日にとりあげられたのは、悔い改めた人々の罪であったように、調査審判のときは信仰を告白している人々の罪が吟味されるのです。
 悪人のさばきは前に学んだ千年期の間に行われ、千年期の後キリストが天の都とともに降臨されるとき、そのむくいを受けます。
 調査審判が終わると神の国にはいる人々が確定し、キリストが再臨なさるのです。


3.調査審判の開始

 調査審判がいつ始まるかは、ダニエル書8章14節に預言されています。
 「2300の夕、と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する。」
 預言の中の1日は実際の1年をあらわすことが次の聖句からわかります。「あなたがたは、かの地を探った40日の日数にしたがい、その1日を1年として、40年のあいだ、自分の罪を負い、わたしがあなたがたを遠ざかったことを知るであろう」(民数記14章34節)。「わたしは1日を1年として40日をあなたのために定める」(エゼキエル書4章6節)。「タと朝」というのは1日のことで、創世記1章をみるとユダヤ人は1日を夕方からはじめたことがわかります。したがって2300のタと朝というのは2300日のことで実際の歴史では2300年となります。ですからこの聖句は2300年たつと聖所が清められる、すなわちあがないの日にあたる調査審判が天において始まるということです。
 この2300年のはじめは、この聖句の意味を知ろうとして祈っていたダニエルに、天使が教えた言葉によってわかります。「あなたの民と、あなたの聖なる町については、70週が定められています」(ダニエル書9章24節)
 これはイスラエル人のために70週=490日、すなわち490年という特別な時が定められているということで、ダニエル書8章と9章を読むとこれも2300年の期間と同じ起算点をもっていることがわかります。その開始の時期については「それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、7週と62週あることを知り、かつ悟りなさい」(ダニエル書9章25節)とあります。
 イスラエルの歴史を調べると、ぺルシヤのアルタシャスタ王が、紀元前457年に、エルサレムを建て直せという命令を出しています(エズラ記6章14節、7章7-9節参照)。したがって2300年の起算点は紀元前457年になるわけです。この教課の最後に出ている図をみて研究なさって下さい。
 またイスラエル人のために特別に定められていた期間は紀元34年までとなります。この期間福音は特にユダヤ人につたえられました。そして7週と62週すなわち69週(483年)は紀元27年となり、この年にメシヤ(救い主)がくるという預言は成就しています。
 「その62週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません」(ダニエル書9章26節)というのはキリストの十字架ですが、27節には、「彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃する」とあり、聖所でキリストの十字架をあらわしていた儀式が廃せられたのはキリストが十字架におつきになった時で、それは週の半ば(3年半)におこる、すなわち紀元27年から3年半たってのことであるというこの預言も正確に成就しました。
 さて2300年の終わりは、図からわかるように、1844年となり、この時から調査審判が開始されて現在に至っているのです。調査審判が終わると全人類の運命が永遠に決定します。今はその瀬戸際にある大切な時です。
 イスラエルの人々はあがないの日に、自分をかえりみ神に従う者として、全く罪よりきよめられているかどうかを反省しました。今日、私たちも同じような心構えをもって日々を過ごさなければならないのです。


4.必要な心構え

 ルカによる福音書16章にキリストのたとえが出ています。ある金持ちのところにいた家令が主人の財産をごまかしていて、そのことが主人にわかりました。そこで主人は「あなたの会計報告を出しなさい」といいました。彼は心の中で「どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう」と思い、主人の負債者たちを呼び出して、その証書の数字を書きかえてすくなくしてやりました。これを知った主人は、家令の利口なやり方をほめたというのです。
 このたとえは誤解されやすいですが、家令がほめられたのは、その不正な方法ではありません。彼が自分の将来のことを本気で考え、用意したという点です。私たちはだれでもいつか「あなたの会計報告を出しなさい」といわれる時がくるのです。そして自分の生涯で行ったすべてのことの収支決算をしなければなりません。それは審判の時です。
 今日人々の心は、目先のことだけにとらわれています。永遠のことを忘れて、この世のことだけに心をそそぎ、かげのようにすぎ去るものに心をひかれて、ほんとうに大事なことを忘れています。
 罪を悔い改め、神に従う生活にはいってさばきのためにそなえをすることは今日いちばん大切なことです。




第29課 復習問題


※問題をクリックすると解答が開きます。

答え: 「神は愛する者たち、すなわちご計画に従って召された者たちと共に働いて万事をとなるようにして下さることを私たちっている」(ローマ人への手紙8章28節)。

答え: 私たちが悔い改めた罪が吟味されたあと、天の記録から完全に消し去られることを示している

答え: 現在天において行われているキリストの働きの型

答え: 罪を悔い改め、神に従う生活に入って、さばきのためにそなえをする

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