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第17課 律法と福音

1. 神の政府はどんなに広大なものですか

「主はその玉座を天に堅くすえられ、そのまつりごとはすべての物を統べ治める。」詩篇103 : 19

2. 神の王国のおきては何ですか

「主の使たちよ、そのみ言葉の声を聞いて、その戒めを行う勇士たちよ、主をほめまつれ(欽)。」詩篇103 : 20

あなたの義はとこしえに正しく、あなたのおきてはまことです。」詩篇119 : 142

「あなたのすべての戒めは正しいので、わが舌はみ言葉を歌います。」詩篇172

3. 神のおきてはシナイ山で与えられる前からありましたか
創世記4 : 7ヨハネ第一3 : 4を、また、創世記35 : 2-426 : 52 : 1-3出エジプト16 : 1, 4, 5, 27-30を対比して下さい。

4. おきてはどのようにして与えられましたか

「時に主は火の中から、あなたがたに語られたが、あなたがたは言葉の声を聞いたけれども、声ばかりで、なんの形も見なかった。主はその契約を述べて、それを行うように、あなたがたに命じられた。それはすなわち十誡であって、主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。」申命記4 : 12, 13

「ときに主はモーセに言われた、『山に登り、わたしの所にきて、そこにいなさい。彼らを教えるために、わたしが律法と戒めとを書きしるした石の板をあなたに授けるであろう』。」出エジプト24 : 12

「主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。」出エジプト31 : 18

5. 神のおきての本質は何ですか

「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。」詩篇19 : 7

「戒めはともしびである、教は光である、教訓の懲らしめは命の道である。」箴言6 : 23

「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。」ローマ7 : 12

6. おきてと罪人とはどんな関係にありますか

「いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。」ローマ4 : 15

「しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。」ローマ7 : 6-8

「というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。」ローマ5 : 13

「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。」ヨハネ第一3 : 4

7. 福音におけるおきての立場はどのようなものですか

「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」ローマ3 : 19, 20

「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法は確立するのである。」ローマ3 : 31(注)

「しかし、もしあなたがたが、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。たとえば、『姦淫するな』と言われたかたは、また『殺すな』とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。」ヤコブ2 : 8-12

「そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。」ヤコブ1 : 22-25

「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」ローマ3 : 21-24

8. キリストは十戒を守られましたか

「その時わたしは言った、『見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります』と。」詩篇40 : 7, 8

「主はおのれの義のために、その教を大いなるものとし、かつ光栄あるものとすることを喜ばれた。」イザヤ42 : 21

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。」ヨハネ15 : 7-10

9. おきてに対する私たちの態度はどうあるべきですか

「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。」ヨハネ14 : 21

「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」ヨハネ第一5 : 1-3

「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。」ヨハネ第一2 : 4-6

10. 私たちはどんな方法を通してのみ、おきてに従うことができますか

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。」ローマ8 : 1-4

【注】おきては義の標準であり、罪を示すものです。福音は、おきてを犯してその死の刑罰を受けるべき私たちが、どのようにその刑罰から逃れ、救われ、永遠の命を得ることができるかという道を示すものです。

「ここに神の子ら―とくに、神の恵みに頼り始めたばかりの者が誤りがちなことが二つあります。これは、特別に注意しなければならないことであります。まず第一に、自分の行為をながめ、自分の力を頼みとして神と調和しようとすることであります。自分の行為によっておきてを守り、きよくなろうとしている人は、不可能なことをしようとしているのであります。人がキリストなしにすることは、すべて利己心と罪に汚れています。信仰によるキリストの恵みのみが、私どもをきよめるのであります。それとは反対でありますが、同じように危険なことは、キリストを信じれば、人は神のおきてを守らなくてもよいという考えであります。つまりただ信仰によってキリストの恵みにあずかるようになったのであるから、行いは、私どもの救いと全然関係がないということであります。…服従、すなわち、愛より出た奉仕と忠誠は、弟子であることの真のしるしであります。…人は服従しなくてもよいというのではありません。信仰―ただ信仰のみが、私どもをキリストの恵みにあずからせ、服従することができるようにするのであります。私どもは、服従によって救いを買うのではありません。救いは神から価なしに与えられる賜物であって、信仰によって受けるのであります。服従は信仰の実なのであります。…キリストを信じれば神に服従する義務はないという、いわゆる信仰は、信仰ではなく憶測であります。」キリストへの道 77-80ページ

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