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第3課 宇宙に始めはあったか―創造の神


  人間は昔から神を信じてきました。どんな民族でも神をもたない民族はありません。しかし人間がいろいろ考えるようになって、神の存在についても批判的になってきました。神の存在を信じることは、迷信であるように思っている人もいます。よく受ける質問は、「神というのは人間の願いから出てきたものではないか。」「人間の想像の産物ではないか」ということです。確かに世の中のいろいろな神々にはそのような印象を与えるものが多いのですが、聖書の示している神は、人間の考えをはるかに超えた存在です。神が要求なさるするどい良心、完全な道徳性、どんな小さい罪でも見逃さないきびしさと、あるいは、敵をもゆるす崇高な愛の精神などは、人間が考える以上のものです。


1.創造の神

 神の存在について聖書は、ヘブル人への手紙3章4節「家はすべて、誰かによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である」と述べています。これはまことに単純明快な答えです。家を見ると、建てられている様子を見なくても、誰かが建てたと思います。もっともこの場合、考え方としては二通りあります。すなわち誰かが建てたと考えるか、自然にあるいは偶然にできたと考えるかです。しかし偶然に木材がより集まって家ができたと考えることは、非常に考えにくいことです。猿がタイプライターをめちゃくちゃにたたいて、まとまった文章を作ることは、可能性はあるとしても、なかなか考えにくいのと同じです。
 家が偶然にできないとすれば、この宇宙は家よりもはるかに複雑な構造を持っているので偶然にできたとは到底考えられません。

(1)現代の宇宙観
 イザヤ書40章26節「目を高くあげて、誰が、これらのものを創造したかを見よ」とあります。都会では今日星もよく見られなくなりましたが、夏の空によく見える天の川はたくさんの星の集まりで、1つの宇宙をつくっています。これを銀河宇宙といいます。地球は太陽の回りを回っている9つの惑星の1つですが、これらの惑星は太陽系をかたちづくっています。太陽系にはこのほかに多くの小惑星やほうき星などがあります。太陽系は銀河宇宙に属している星の集団です。
 太陽は地球の130万倍もある大きな星で、光と熱のエネルギーを地球に送り、地上の生命やあらゆる活動を支えています。ある人の計算によると太陽は、地球上で人類の発性以来つかったエネルギーの総量を3万分の1秒で空間に放出しているのです。太陽は銀河宇宙の中では中くらいの星で、銀河宇宙には太陽ような星が約1000億もあるのです。そのたくさんの星がだいたい光の速さで10万年かかるくらいの空間に集まっています。地球のおとなりの月は38万キロで、光で行けば一秒あまりの距離ですが、アポロ宇宙船が行くのは大変なことでした。まして光で行って10万年というのは、大変な距離なのです。しかしこれが宇宙の果てではありません。銀河宇宙を出るとしばらく星はありませんが、光にのって180万年くらい行くと、アンドロメダ星雲という銀河宇宙のような星の集まりがあります。これは銀河系外星雲といわれる、よその宇宙です。そして驚くことに、米国のウイルソン山の100インチ(2.5メートル)望遠鏡を使って研究した結果、銀河系外星雲も約1000億あって、銀河宇宙から遠いものほど、はやく遠ざかっていることがわかりました。たとえば50億光年の距離にある牛飼い座の星雲は、毎秒11万キロという信じられない速さで後退しているのです。
 この宇宙は永遠の昔からあったものでしょうか。現在天文学者は、この宇宙にははじめがあったと考えられるといいます。たとえば東京大学の小尾信弥教授は「宇宙を探る」という著書の中で、いくつかの理由をあげて、宇宙にはいつかはじめがあったと考えられるといっています。

(2)物質のはじめ
  そうするとはじめの物質はどうしてできたかという問題が出てくるわけですが、これは化学が進歩した現代でも、なかなか簡単に答えられる問題ではありません。米国の物理学者ウィリアム・A・ファウラー博士は、元素がどうしてできたかを説明するにあたって、陽子と中性子という原子核をつくる2つの基本的な粒子から出発していますが、そこに次のように書いています。
 「これら陽子や中性子自身がいったいどうして創られたのかという疑問は、この章の範囲外のこととしよう。宗教的にしろ科学的にしろ、異常に信念の強い人だけが勇気を持って物質の創生という問題に取り組むことができるだろう」(最新の宇宙像61ページ)。
 この言葉は、物質がいかにしてできたかという問題は一般の科学の範囲では取り扱えない問題であることを示唆しています。
 たとえ中性子や陽子が何か他の粒子からできたということが分かったとしても、さらにその粒子はどうしてできたかと次々に問いを進めてくると限りがありません。そこには人間の思考の限界もあるように思われます。
 聖書の創世記の1章1節には「はじめに神は天と地とを創造された」とあります。これは宇宙のはじめという問題に対する非常に巧みな説明でもあります。物質の範囲で考えていたのでは、この問題はどこまでいっても結着がつきませんが、ここに聖書は神という全く次元のちがった概念を持ち出すことによって、解決を与えているのです。神は永遠より永遠にわたって存在する方として理解することによって、「では神はだれがつくったか」という質問を封じることができるのです。
 しかもこのような考えは、先にも述べたように、人間にとってきわめて自然な考えです。こんな話があります。ロバート・インガーソルは19世紀のアメリカの有名な不可知論者ですが、彼がある時すぐれた説教者であったヘンリー・ワード・ビーチャーを訪れました。部屋に通ると、天の星座を表した、立派な天球儀があるのに目をつけて、ビーチャーにいいました。
 「これは実に見事な天球儀ですね、だれがつくったのですか。」
ピーチャーはちょっととぼけて、「だれがつくったかとおっしゃるのですか。誰もつくりはしませんよ。偶然にここにあるのです」と答えたということです。
 日頃この世界は、神がおつくりになったことを信じないで、自然にできたといっていたインガーソルも、この答えに満足はしなかったでしょう。
 私たちがこの宇宙を見て、神がこれをおつくりになったと信じることは、きわめて自然な考え方なのです。
 しかし神は何もないところに、どうして物質をおつくりになったのでしょうか。詩篇33篇6節には、「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた」とあります。すなわち物質の創造は神の言葉の中にあったエネルギーによってなされたのです。この事は19世紀までは、科学的に理解することは困難でしたが、20世紀の科学は、物質がエネルギーになり、エネルギーが物質になることを見出しました。神が言葉を出して、世界を創造なさったということは、決して信じられないことではないのです。


2.まことの神

 この世の中にはいろいろな神があります。それぞれの宗教は、ちがった神を拝んでいます。聖書が示している神は、この宇宙とその中にあるすべてのものをおつくりになった方です。創造ということが、まことの神を、他の神々から区別するものとなっています。
 「もろもろの民のすべての神はむなしい。しかし主はもろもろの天を造られた」(詩篇96編5節)
 また神の創造ということが、神を拝する理由としてあげられています。詩篇95編6節には、「さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう」とあり、ヨハネの黙示録14章7節には「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」と記されています。
 神が世界をつくり、わたしたちもつくって下さったということが、神と人間との基本的な関係です。人間は神によってつくられ、また保たれているので、その神を拝することは当然のことなのです。
 地球がつくられた目的については、イザヤ書45章18節「天を創造された主、すなわち神であって、また地をも造り成し、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人のすみかに造られた主はこう言われる、『わたしは主である、わたしのほかに神はない』」と書いてあります。


3.神の性質

 聖書は神をどんな方として示しているでしょうか。その主なものを考えてみたいと思います。
まず神は人格をもっておいでになるということです。人格の本質は、自分を意識することができ、自分で決断することができることであるといわれています。そこには知性や意志、個性というようなものがあります。人間は人格を持っています。ですから神も人間と同じように語り、感じ、喜び、悲しまれるのです。ただ人間とちがって神の人格は完全で、人間のように欠点はありません。
 神は肉眼で見ることはできません。それは目に見える体をもっておいでにならないからです。人間は体を持っているので、目に見えますが、よく考えると、目に見えるのは私の体であって私ではありません。私の個性とか人格は体によって表現されますが、本来はやはり目に見えないものです。その意味では私たちは本質的に、神と似た存在なのです。ですから神を認めることができるのです。
 神を認めることについて、英国の有名な歴史家アーノルド・J・トインビーは『未来を生きる』という本の中で、「宇宙を形造っているすべての事物の背後、そしてその彼方には、―これは私の信念ですが―この宇宙に意味と価値を与えている何か究極的な精神的存在といったものが存在しています。…宇宙の背後にあるこの精神的な存在を私が信ずるということは、一つの信仰です。この精神的な存在があるということの証明は、私にはできません。…私はただ人間性の精神的な側面で私が直接経験したことから、その存在を感じ取るのです。たいていの場所で、たいていの人が、同じ感得を得てきました」といっています。私たちは神の存在を、私たちの本質的な直観で感じとることができるのです。

(1)全知
 神はすべてのことを知っておいでになります。「われらの主は大いなる神、力も豊かであって、その知恵ははかりがたい」(詩篇147編5節)「「そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである」(ヘブル人への手紙4章13節)
また私たちの心の中まで知って、理解と同情を与えて下さるのです。「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます」(詩篇139編1-3節)
 神は私たちが何を必要としているかも知っておいでになり、私たちが神に求めるならば、最善のものを与えてくださいます。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思い煩うな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存知である。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6章31-33節)。経済変動のはげしいこの時代にも、神に頼れば安心していることができます。
 また神は将来のことも知っておいでになり、それが聖書の中に多くの預言としてあらわれています。

(2)全能
 「ああ主なる神よ、あなたは大いなる力と、伸べた腕をもって天と地をお造りになったのです。あなたのできないことは、ひとつもありません」(エレミヤ書32章17節)「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」(マタイによる福音書19章26節)
 全宇宙を創造なさった神には、おできにならないことはないというのは当然のことです。私たちがこの神におたよりするならば、何の不安も、心配もなくなります。

(3)義
「義と公平はあなたのみくらの基、いつくしみと、まことはあなたの前に行きます」(詩篇89編14節)
 神は絶対に正しく、また正義と公平をもってこの世界を支配しておいでになります。

(4)愛
 「神は愛である」(ヨハネの第一の手紙4章8節)。この事実を聖書はくりかえし、くりかえし教えています。この愛はただ感情的なものではなく、意志を土台としたものです。神はつくられた人間の一人一人を愛しておいでになります。これは神の強烈な意志です。イザヤ書49章15節には「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない」(イザヤ書49章15節)とあります。
 神は私たちが神を忘れ、あるいは神に反抗してもなお愛して下さるのです。そして忍耐をもって、私たちが神に帰るのを待っていて下さるのです。放蕩息子が悔い改めて帰ってくるのを待っている父親のように、神を忘れて、自分の愚かな道に歩んで行きづまった人間が、神の愛を見出して、再び神に帰ることを待ち望んでおいでになるのです。




第3課 復習問題


※問題をクリックすると解答が開きます。

答え:を高く上げて、だれが、これらのものを想像したかを見よ」( イザヤ40章の26節)。

答え: 創造ということが、まことの神を他の神々から区別する

答え: 女がその 乳飲み子を忘れて、その腹の子を あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが 忘れるようなことがあっても、 わたしあなたを忘れることはない。

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