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第6課 幸福な生き方(2)


 神が人間に十戒をお与えになったことは、人類歴史における重大な出来事の1つです。十戒はそのほかの道徳律に比べて、はるかに高くまた徹底しています。ここに示された戒めが良心と行動を支配するとき、誰でも本当に喜びのある幸福な生活にはいることができるのです。
 戦後人々がいろいろな束縛から解放されて自由にふるまうようになって、人間関係の難しさが表面に浮かび上がってきました。そしてカーネギーの『人を動かす』という本のような人間関係の実用書が歓迎されたこともありました。しかし、人間関係を改善する根本的な方法は十戒の中に示されています。
 しかも十戒は、ただ便宜的に人間の行動の方法を教えているのではなく、人間性の本質を踏まえて、神が人間に幸福な生き方を示されたのです。またこれは人間の道徳の規準であり、私たちはこれを守る道徳的責任を負っているのです。


1.両親に対して

 第5条は、あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト20章12節)です。
 家庭は社会の単位です。家庭の中の秩序や人間関係は社会生活の土台となります。
 親孝行などは、もう古い道徳であると思っている人がいるかもしれませんが聖書のおきては親を尊敬し親に従うことを人間関係の第一番目に持ってきています。ここには権威を尊重する考えがあるのです。自由は大切です。しかし自由だけでは、秩序を保つことはできません。正当な権威を承認するということがなければ、お互いに自由に行動することもできなくなってしまいます。子供の小さい時、親は神の代わりになって子供を導きます。親の権威に服従することを学んだ子供は、神に服従することができるようになります。この戒めは、親を尊敬し、服従することを要求しているばかりでなく、親を愛し、いたわり、その重荷を軽くし老齢になった時に助け、慰めることを要求しています。
 キリストは十字架の苦しみの中から、母マリヤの将来のことをおもい、弟子ヨハネに後事を託されました。このようなやさしい思いやりを子供は親に対してもたなければなりません。そうすることは私たち自身の心に、安らぎと喜びを与え、長い生命を楽しむことができるようにするのです。
 この戒めは親だけでなく、すべての正当な権威を尊びこれに服従することを教えています。すなわち牧師、教師、為政者等神が権威をおゆだねになった人々を尊敬することも含まれています。ここでいう服従は、ただ盲目的にするのではなく、理性と良心に従って、正当な権威を認め、服従するということです。
 第5条の戒めは、子供に対しての戒めだけでなく、親や権威の地位におかれている者に対して、その権威にふさわしい行動をして、尊敬をうけるに足る者となることを求めています。それは上に立つ者の責任です。


2.人命の尊重か

 「あなたは殺してはならない」(出エジプト記20章13節)というのが第6条の戒めです。
 生命は神に属するものです。第4課で学んだように生命をつくることは、人間にはできません。この世界で、生命は大きく分けて3つのかたちをとっています。すなわち植物と動物と人間です。第6条の戒めは、すべての生命を保護することがその根底にはありますが、特に人間の生命を取り上げているのです。人間でも動物でも、生きていくために、他の動物や植物の生命が必要です。創世記9章3節に、神は「すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える」といわれました。動物の生命も有用な目的のためにとることは禁じられていませんが、あわれみの心を持ち、ざんこくな取り扱いをしてはいけません。箴言12章10節には「正しい人はその家畜の命を顧みる」とあります。
 この戒めは、自殺も禁じています。神が生命を与えて下さる間、私たちはなすべき勤めがあるのです。どんなつらい境遇でも、神の助けによって乗り越えられないものはないはずです。神は、「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に合わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えて下さるのである」(コリント人への第一の手紙10章13節)と約束なさっていますから、自殺を考えたくなるようなところに追い込まれても、神にたよれば神は必ず逃れる道を備えて下さいます。
 私たちの健康をそこなう行為も、殺してはいけないという戒めをやぶることになります。酒やタバコ等明らかに健康に害となるものはもちろん、食物の中でも健康によくないものはさけることです。食物だけでなく、健康によくないすべての習慣も同じです。私たちが健康の法則を学んで、健康を保つように心がけることは、神に対する義務です。健康でなければ仕事も満足にできないばかりでなく精神生活にも影響を受けるのです。
 神のおきては、具体的な行為だけでなく、精神的な意味も含んでいます。第6条の戒めについてキリストは、「昔の人々に『殺すな、殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかしわたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟に向かって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」(マタイによる福音書5章21、22節)といわれました。「殺してはならない」ということは、具体的に殺すことだけでなく、人を怒ったり、憎んだり、そしったりすることも含んでいます。このようなことは他人をきずつけ、ついには他人を殺すところまで発展するのです。
 19世紀から20世紀にかけて、米国ですぐれた宗教指導者であったE・G・ホワイトは、「人喰い人種が、まだ生暖かいぴくぴく動く獲物の肉を食べている光景は、思っただけでもぞっとするが、こういう行為よりももっと恐ろしい結果は、真意を誤り伝えられたり、評判を傷つけられたり、品性を批判されたりすることなどによって生ずる苦悩と破滅である」と書きました。
 しかし現実にはこのような経験におちいる場合もありますが、聖書はそのような時に「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。むしろ『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ人への手紙12章19-21節) とすすめています。


3.異性に対して

 第7条は「あなたは姦淫してはならない」(出エジプト記20章14節)です。神は人間を男と女におつくりになりました。この戒めは異性に対する正しい関係を示しています。それは心と体の純潔です。また結婚における誠実な関係を要求しています。
 今日は性の問題が非常に乱れています。フリーセックスとか、 同棲時代とかいって、情欲のおもむくままに行動しようとします。しかしその結果多くの問題と心のいたみを引き起こしています。性欲は人間の大事な本能ですが、それは理性の支配のもとにおかれなければならないのです。聖書は性を肯定しています。キリスト教は禁欲主義ではありません。神がお与えになった身体の機能は、正しく用いられるならば、人間を幸福にします。
 コリント人への第一の手紙6章15-18節に、「あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを知らないのか。それだの に、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか、断じていけない。それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。・・・・不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである」とあり、姦淫は、自分のからだをけがすものです。
 キリストはこの戒めについて、「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。誰でも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイによる福音書5章27、28節)といわれました。
 現代の生活には、いかがわしい出版物や映画、酒や麻薬、挑発的な音楽やダンス等、性に対する誘惑が多くあります。
 昔、エジプトで宰相となったヨセフは青年時代に、自分のつかえていた主人の妻の誘惑をうけた時、「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」(創世記39章9節)といって、はっきりそれを断りました。いつも神の前にいることを忘れないことは誘惑に打ち勝つ大きな助けとなります。


4.所有権

 第8条の戒めは、「あなたは盗んではならない」(出エジプト記20章15節)です。第8条の戒めは、所有権を保証しています。もっとも本当の意味ですべてのものを所有しておいでになるのは神です。詩篇24篇1節には、「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである」とあります。人間の所有権は神より与えられたものを、神のみ旨に従って用いることによって、神の栄えをあらわすことができます。
 窃盗や強盗はもちろん許されませんが、侵略戦争などもこの戒めを犯すことになります。商取り引きにおいてごまかしたり、不当な利益をとることもこの戒めは禁じています。聖書は、「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」(エペソ人への手紙4章28節)と勧めています。盗むのでなく正当に働くならば神は必要なものを備えて下さいます。
 支払いを遅らせたり、不当に安い賃金で人を働かせたりすることも、この戒めの精神に反します。他人の無知、弱点、不幸につけこんで、自分の利益をはかることも許されないのです。
 「貧しく乏しい雇人は、同胞であれ、またはあなたの国で、町のうちに寄留している他国人であれ、それを虐待してはならない。賃金はその日のうちに払い、それを日の入るまで延ばしてはならない。彼は貧しい者で、その心をこれにかけているからである」(申命記24章14、15節)
 また雇われている人は、忠実に働かなければやはりこの戒めを犯していることになります。
よい評判や信用は財産と同じように大切なものです。箴言22章1節には「令名(よい評判=著者注)は大いなる富にまさる」とあります。人のよい評判をきずつけたり、人の信用をこわすようなことも盗むことになります。


5.いつわりのあかし

 第9条は「あなたは隣人について、偽証してはならない」(出エジプト記20章16節)です。ここでいう隣人というのは、だれでも私たちと接触し、関係をもつ人のことです。
 どんなことでも、いつわりを言うこと、隣人をあざむくことはこれに含まれます。わざと誇張した言葉、まちがった印象を与えるような暗示、事実であっても誤解を招くような言い方、事実を故意に隠して、その結果人に害を及ぼすことは、この戒めを犯すことになります。


6.むさぼり

 十戒の第10条は、「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」(出エジプト記20章17節)です。
 むさぼりとは正当な意味で自分のものでないものを望むことです。これはすべての罪の根です。
 キリストはこのむさぼりについて、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人の命は、持ち物にはよらないのである」(ルカによる福音書12章15節)と注意なさいました。聖書の中には、むさぼりのために失敗した人の例がいくつもでています。これは人の心の底に潜む罪です。むさぼりを防ぐために次の言葉を考えて下さい。
 「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世に来た。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ、衣食があれば、それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる。無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である」(テモテへの第一の手紙6章6-10節)


7.愛の戒め

 キリストは十戒のうちの人に対する6つの戒めを要約して「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイによる福音書22章39節)と言われました。本当に人を愛することができれば、第5条から第10条までの戒めは守ることができ、人を幸福にするとともに、自分も幸福になることができるのです。




第6課 復習問題


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