Library Topへ 教課一覧へ 第19課へ 第21課へ

第20課 死後はどうなるか


 フランスの文豪ビクトル・ユゴーは、「人間は刑期を定められていない死刑囚である」といいました。人間はだれも死をまぬがれることはできません。ただその時がわからないだけです。
 評論家の荒正人氏は「現代人にとって、死は必ずしも老人の関心に留まるものではない。青年の病死や自殺は僅少な例外としても、私たちの外部から突然に、また、緩慢に押しよせて来る死にかこまれている。戦争と革命は、死と同義語である。原子爆弾や政治裁判は万人の脅威である。各種の公害は、平和に暮らしている市民たちを死の世界へ引きずり込もうとしている。20世紀後半に生きながら、死神の大鎌を心に浮かべることのない者は、馬鹿か気違いだけであろう」と書いています。現代に住む私たちは死と非常に近いところで生きているのです。
 聖書は「罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙6章23節)といい、死は人間の罪の結果であると説明しています。
 私たちは死ぬとどうなるのでしょうか。聖書の中にその答えを求めてみたいと思います。


1.死をみつめる心

 東大の宗教学科主任教授であった岸本英夫博士は、ガンの宣告を受けて、死と対決しながら10年間を過ごしました。その間博士が死の恐怖と直面したなまなましい体験を「死をみつめる心」という著書の中に、くわしく書いています。
 その中で彼は、まず生死観には2つの立場があるといい、その1つは一般的な立場で考える観念的な生死観で、もう1つはもっと切実な緊迫した立場です。これは戦場に赴くとか、病気になるとか、自分の生存を続けてゆく見通しが断ちきられた場合です。死刑囚の刑の執行がきまったときや、ガンで手おくれを宣告されたときなどもそれにあたります。このような状態を生命飢餓状態と呼び、生命飢餓状態における死に対する恐怖について、「死の恐怖は、人間の生理心理的構造のあらゆる場所に、細胞の一つ一つにまで、しみわたる。生命に対する執着は、藁の一筋にさえすがって、それによって追ってくる死に抵抗しようとする」と書いています。そして、さらに次のように述べています。
 「生命飢餓状態に身をおいて考えてみると、平生は漠然と死の恐怖と考えていたことが、実は2つの異なった要素をふくんでいることがあきらかになる。その1つは死そのものではなく、死にいたる人間の肉体の苦痛であり、他は、生命が断ちきられるということ、すなわち、死そのものに対するおそれである。
 この2つは質的には、まったく異なった要素でありながら、両者は、時間的には、ほとんど同時に、人間に襲ってくる。それで多くの場合に、両者は混同されてしまう。
 ところかまわず襲ってくる激痛、高熱、吐瀉(としゃ)、下痢、喀血(かっけつ)、呼吸困難、このような思ってもゾッとするような苦痛なしには、この人間の肉体は、生命を失ってゆくことのできない場合が多い。それだけに心を奪われて、それだから自分は死ぬのがこわいのだと思っている素朴な人びとも多い。
 しかしこれは、前山の高さに気をとられてそのうしろにひかえている真の高山を見あやまる考え方である。肉体の苦痛はいかにはげしくとも、生命を断たれることに対する恐怖は、それよりももっと大きい。生命飢餓状態におかれれば、人間はどうしても、どんな苦しみの下におかれても、生きていたいと思う。人間は、この状態ではいつでも、もっと生きていたいのである。ゴーリキーの描きだす『夜の宿』の売娼婦のように、『いくら苦しくてもよいから、もっと生きたいの』というのが人間の本音である。」
 「そこで、死の恐怖について、死にともなう肉体的な苦痛と、死そのものとをわける。そしてここでは、死の、より中心的な問題として、生命を断たれるということをめぐる問題だけに焦点をおいてみる。
 生命を断ち切られるということは、もっとくわしく考えると、どういうことであるか。それが人間の肉体的生命の終わりであることはたしかである。呼吸はとまり、心臓は停止する。もはや肉体は個体としての機能をしなくなる。その結果、肉体はあるいは腐敗し、あるいは焼かれ、自然的要素に分解する。
 このように、死によって肉体が分解するというところまでは、近代文化の中では、だれの考え方も一致する。
 しかし生命体としての人間を構成しているものは、単に生理的な肉体だけではない。少なくとも生きている間は、人間は精神的な個と考えるのが常識である。生きている現在においては、自分というものの意識がある。そこで問題は『この自分』は死後どうなるかという点である。これが人間にとっての大問題である。」
 また次のようにも書いています。
 「まっくらな大きな暗闇のような死が、その口を大きくあけて迫ってくる前に、私は立っていた。私の心は、生への執着ではりさけるようであった。私は、もし自分が死後の理想世界を信じることができれば、どれほど楽だろうと思った。生命飢餓状態の苦しみを救うのに、それほど適切な解決法はない。死後も生命があるのだということになれば、激しい生命飢餓の攻勢も、それによってその鉾先(ほこさき)をやわらげるに相違ない。」


2.生と死

 死後はどうなるかという問題は、人間の本質を理解しなければわかりません。聖書は人間がいかにして生命を与えられたかを説明しています。すなわち創世記2章7節に、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」とあります。
 これはまことに素朴な言葉ですが、人間が自分としての意識を与えられ、生きた者としての活動をはじめるようになった過程を明瞭に説明しています。
 まず人間の体は、酸素・炭素・水素・窒素・カルシウム・燐・カリウム・ナトリウム・塩素・硫黄・マグネシウム・鉄等の元素からできていますが、これらはみな土の中にあります。神は人間の体を土の中にあるこのような元素でお造りになりました。そこに神が生命の息を吹きいれられてはじめて人は生きたものとなりました。すなわち生命の活動がはじまり、個としての意識が生じたのです。
 ヨブ記33章4節には「全能者の息はわたしを生かす」とあります。この生命の息について伝道の書3章19節には、「人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない」とあり、人間も獣もみな同様の生命の息をもっているといいますから、生命の息は心や魂というものではないことがわかります。
 死においてはこれと反対のことが起こるわけで、ヨブ記には、「わたしの息がわたしのうちにあり、神の息がわたしの鼻にある間、わたしのくちびるは不義を言わない、わたしの舌は偽りを語らない。…わたしは死ぬまで、潔白を主張してやめない」(27章3節―5節)とあり、詩篇104篇29節には「あなた(神)が彼らの息を取り去られると、彼らは死んでちりに帰る」、また、詩篇146篇4節には、「その息が出ていけば彼は土に帰る」と書いてあります。
 人間は神よりきた生命の息がある間、生きた者として意識があり、活動しますが、この息が取り去られると、意識を失い、体は土のちりにかえっていくのです。
 その状態は電球に電流が通じて光が発生するのにたとえることができます。物質としての肉体を電球とすれば命の息は電流にあたります。この2つが結合すると「生きたもの」に該当する光が出てくるのです。もし電流が絶えれば電球だけが残って光はなくなります。そのとき光はどこかへ行ったのではなく、光そのものが存在しなくなるのです。人間についても同じことが言えるわけで、電流にあたる命の息がなくなって死ぬと、残るのは電球にあたる生命のない肉体だけで、それ以外のものは何も残らないのです。


3.死の状態

 生命の息が取り去られると、人間の意識はなくなるので、聖書は死の状態を眠りという言葉で表現しています。「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである」(テサロニケ人への第1の手紙4章13節)
 ある時キリストが愛しておられたラザロという人が病気で重態になりました。彼の姉妹マルタとマリヤはキリストに助けを求めました。聖書によるとこの知らせをお聞きになったキリストはなお2日そのおられたところに滞在してから、ようやくラザロの家へ向かわれました。その間にラザロは死にました。出発にあたってキリストと弟子たちのあいだには、次のような会話がかわされました。
 「彼らに言われた、『わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く』。すると弟子たちは言った、『主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう』。イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、『ラザロは死んだのだ』」(ヨハネによる福音書11章11―14節)
 キリストが「眠っている」といわれたのは死のことであったことは明らかです。
 したがって死の状態においては「彼の子らは尊くなっても、彼はそれを知らない、卑しくなっても、それを悟らない」(ヨブ記14章21節)、また、「その日には彼のもろもろの計画は滅びる」(詩篇146篇4節)のです。
 また、伝道の書9章5節、6節には「生きている者は死ぬベき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない」とあります。
 これは第一の死で私たちが完全に眠っているときのように無意識の状態になるのです。しかし眠りにはさめる時があるように、この死には復活があります。
 第一の死は、人間の祖先が罪をおかした結果としてすべての人におよんだのです。また聖書には第二の死があると書いてあり、この死は罪を悔い改めなかった人が死んだ後再びよみがえらされて最後に滅ぼされることです。
 今日のキリスト教では一般に、人が死ぬとすぐ天国に行き、また霊魂は不滅であると信じられています。しかし聖書によれば、体をはなれた霊魂が存在したり、死ぬとすぐ天国に行くということはないのです。
 今日世界で最もよく知られている神学者のひとりであるオスカー・クルマンは、「魂の不滅か、死者の復活か」という小さい本の中で、聖書を土台として、死んだ人はどうなっているかという問題に答えました。この本の中でクルマンは、人が死んですぐ天国に行くとか霊魂の不滅という考えは一般に広く受けいれられているが、これはキリスト教の最大の誤解であると言っています。
 どんな信仰のあついクリスチャンでも、死後直ちに昇天するということはありません。イスラエルの王であったダピデについて、「彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。…ダビデが天に上ったのではない」(使徒行伝2章29節、34節)と書いてあります。


4.クリスチャンの希望

 死んで眠りの状態にはいったあと、いつまでもこの状態がつづくのではありません。聖書は復活の事実を教えています。かいこは繭をつくってその中でさなぎになり、無活動の状態にはいりますが、時がくると蛾となって再び活動の世界にかえってくるように、人間もいつまでも眠りの状態を続けるのではありません。もう一度生命の息を与えられてよみがえらされるのです。キリストが復活なさったことは、私たちも復活することができる保証です。
 聖書は、2通りの復活について述べています。
 「墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう」(ヨハネによる福音書5章28、29節)
 第一の復活はキリスト再臨のときで、義人が生命を受けるためによみがえり、第二の復活は千年期のあとで悪人がさばきを受けるためによみがえるのです。
 人間の死は罪の結果ですが、神は救いの計画をお立てになり、キリストの十字架による身代わりの死によって、救いの道をお開きになりました。そこで罪を悔い改め、キリストを信じる人に、神は永遠の生命を与えて下さいます。しかしこれを信じ受けいれない人々は、よみがえらされたあと、自分の生涯において行ったすべてのことについて神のさばきを受け、永遠の滅びにいたるのです。


5.生命のある間に

 「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである」(伝道の書9章10節)
 人の未来は生きているうちに決定します。死後に機会はありません。生きている間に、キリストの救いを自分のものにしましょう。永遠の生命の希望に生きる者にとって死は一時の休息、眠りの時にすぎません。目をさました時は、再臨なさるキリストとお目にかかることができ、また死によって別れた愛する人々とも再会することができるのです。




第20課 復習問題


※問題をクリックすると解答が開きます。

答え: 「人間は刑期を定められていない死刑囚である」

答え: (1)死に至る肉体の苦痛、(2)死そのものに対する恐れ

答え: (1)土のちり、(2)命の息、(3)生きたもの

答え: 第一の死ー人間の祖先が罪を犯した結果すべての人に及んだもの、第二の死ー罪を悔い改めなかった人が死んだ後ふたたびよみがえらされて最後に滅ぼされること

答え: 「すべてあなたの手のなしうる事は、をつくしてなせ。あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである」(伝道の書9章10節)。

※サンライズミニストリーストアからテキストもご購入いただけます。
1巻《1-12課》のお求めはこちらから。
2巻《13-24課》のお求めはこちらから。

Library Topへ 教課一覧へ 第19課へ 第21課へ