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第11課 キリストの復活―聖書の記録

はじめに

イエスは生前、弟子たちに対して、ご自分がやがて十字架に架けられて殺されることを、繰り返し予告しておられました。しかし、弟子たちはなんとなく不安な気持ちをいだきながらも、そんなことになるとはまったく思ってもみませんでした。それどころか、イエスはまもなく王となって、ユダヤをローマから解放し、自由の王国を打ち立ててくれるものと期待していました。しかしそれは、神のご計画ではなかったのです。
イエスの救いは、アダム以来の人類の罪を取り除くことにありました。そのためには、イエスがわれわれ人類の身代わりとなって、われわれの罪に対する神の刑罰を受ける必要があったのでした。この代罰によって、われわれの罪は合法的に処理され、罪の奴隷状態から解放されて、自由の身となることができるようになったのです。
しかし、それで救いが完成したわけでも実現したわけでもありません。

十字架につづいて

われわれの過去の罪は、赦され消しさられたとはいえ、罪の力は依然として存在しており、猛威を奮ってわれわれを誘惑し、ふたたび罪に引き入れようとして執拗に働きかけてきます。
われわれが、そうした誘惑や試練に勝利するためには、神の守りと助けが必要であり、その意味で依然として救いを必要とする状態にあります。
それに何よりも、世には罪の結果である病があり、死があり、生活難もあれば苦難や不幸も存在しています。これは、キリストの十字架によって解消されたわけではありません。したがって、十字架だけなら救いは未完成のまま、ということになってしまいます。そういうわけで、神の救いの計画は十字架だけで終わるものでないことは明らかです。
では、神の救いの計画が達成されるためには、その上何が必要であり、どんなことが起こるのでしょうか。
イエスは生前、十字架の死の予告に併せて、復活のことも告げておられました。しかしこれは、弟子たちにはまったく理解のできないことであり、彼らの念頭から消え去っていました。
他方、サタンはどうかといえば、彼は民衆をそそのかしてイエスを死に追いやり、しかも遺体を墓に封じ込めることによって、神との戦いは永久に終り、しかも完全に勝利できたことを確信していたにちがいありません。
けれども、それですべてが終わったのではありませんでした。それどころか、神と悪魔の大争闘の勝敗は、いままさに大逆転が演じられようとしていたのでした。それはイエスが予告しておられたように、キリストは死を滅ぼし、墓を破って出てこられたことです。

イエスの復活に関する聖書の記録

そこで、教理の解説の前に、ここではまずイエスの身に起こった不思議なできごとについて、知っていただくことにしたいと思います。
これについては、どなたも直接ご自分で聖書を読んでいただくのが最善だと思いますが、キリストの復活に関する記事は、四つの福音書にそれぞれ記録されています。それを引用すると冗長になってしまいますので、わたしがその筋書きを簡単に述べさせていただきます。
イエスが十字架にかけられて死んだのは、今の金曜日に当たります。イエスはその日のうちに墓に葬られました。翌第七日すなわち土曜日は、何事もなくすぎ、週の初めの日すなわち日曜日の朝早く、女の弟子たちが墓にやってきました。イエスの死体に油を塗るためです。イエスの遺体を墓に納めたときは、まもなく安息日になってしまい、葬りの備えを済ませることができなかったためと思われます。ところが女たちがそこに不思議な光景を目の当たりにして驚愕しました。当時の墓は岩間の洞窟であり、遺体を納めた墓は入り口を大きな石で蓋をし塞いでいました。ところがその石は除けられており、二人の天使がその上に座っていたのです。しかも、その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真っ白であったとあります。見張り役の兵たちは、恐ろしさのあまり震えあがって死んだ者のように倒れ伏していたのでした。
ところが、御使は女たちに申しました。「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい」と。そして、ガリラヤに行けばそこでイエスにお会いできるであろう、と天使は告げています。女たちは驚きながらも大喜びで、エルサレムに馳せ帰り、自分たちが見たこと聞いたことを、ありのまま弟子たちに知らせました。しかし、弟子たちはそれをすぐには信じることができませんでした。
その日の夕方のことです。二人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かって道を歩いていました。彼らはイエスの身に起こったことについて、たがいに語り合っていました。そのとき、だれかがうしろから近づいてきて、「何を話し合っているのか」と声をかけてきました。それはじつはよみがえられたイエスであったのですが、二人の目がさえぎられていて、それとは気づかなかったようです。
彼らの一人が、まず十字架のできごとについて語っています。「あの方は、教えにおいても、奇跡のわざおいてもすぐれており、イスラエルを救ってくれるのはこの人以外にはないと思っていました。それなのに彼はなんの抵抗もせず、むざむざ殺されてしまったのです」

他の一人がつづけて申しました。「しかも、今朝方数人の女たちが墓に行ったところ、イスの遺体がなくなっており、そばに天使がいて『イエスはよみがえられた』と告げたというのです」と。
結局弟子たちは、十字架と復活の両方に躓いていたことがわかります。これにたいして、イエスは次のように言われました。
『ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか』そう言って、聖書の預言の言葉を引き、十字架も復活もはっきり預言されていたではないか。その預言のとおりのことが起こったというのに、どうして失望したり落胆したりしているのか、と彼らの無知と不信を譴責しておられます。
やがて、彼らのめざす村に着きました。二人の弟子は家に入ろうとしますと、見知らぬ旅人は、そのまま旅をつづけようとする様子、そこで二人はそれを引き止め、客として家の中に招じ入れました。
食事をはじめるにあたって、旅人はあたかもこの家の主であるかのように、食前の感謝の祈りをささげます。そのとき、突如として二人の目が開け、この旅人はよみがえった主であることに気づきました。とたんにイエスの姿は消えて見えなくなりました。そこで弟子たちは互いに言ったというのです。
「道々お話になったとき、また聖書を説き明かしてくださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか」と。
弟子たちは喜びのあまり、もう食事どころではありません。早速家を飛び出し、このおとずれを他の弟子たちに知らせるために、暗くなった道を石につまずきながらも、それをものともせず、エルサレムに取って返したのでした。そして、自分たちが出会った出来事を話して聞かせました。ところがそこへイエスがお現れになって、彼らの前に立ち「やすかれ」と声をおかけになったのです。
弟子たち驚きのあまり、霊か何かを見ているような気がして、なおも信じられないでいると、「なぜおじ惑ったり、疑ったりしているのか。わたしなのだ。霊には肉も骨もないが、わたしにはあるのだ。さわって見なさい」といわれ、釘跡のある手と足とをお見せになったとあります。

それでもなお信じられないでいると、イエスは「何か食べ物があるか」と尋ねられ、弟子たちがそれを差し上げると、イエスはそれを皆の前で召し上がられました。それによって復活のたしかな証拠を、弟子たちにはっきりとお示しになったのでした。
こうして男の弟子たちも、ついに疑いが晴れ、キリストのよみがえりの事実を信じたのでした。しかし残念なことに、そのときトマスという弟子がひとり不在であったのです。彼が帰ってきたとき、弟子たちが口をそろえて、キリストがよみがえってここにお現れになった、と告げたのですが、トマスは「わたしはイエスの釘跡に、自分でこの指を差し入れてみないうちは決して信じない」と言い張っています。
ところが、それから八日たって、イエスはトマスもいるところにまたお現れになりました。そしてトマスに向かって「あなたの指を、わたしの釘跡に差し入れてみなさい」といわれたのです。
イエスは八日前にトマスがなんと言ったかをすべてご存じであったのです。それと知ったトマスは、指を差し入れて確かめるまでもなく、イエスの復活を認め受け入れて、「わが主、わが神よ」と、イエスの足元にひれ伏してイエスを拝したのでした。
こうしてイエスを裏切ったユダを除く弟子たち全部が、イエスの復活を信じたのでした。

キリスト復活の真偽

ところで、一度死んだ者が生き返るなどということが、本当にあったことなのかどうかについて、こんにち多くの人が疑っています。無理もありません。当時の弟子たちでさえ、すぐには信じられなかったのですから。ましてそれから二千年も経っているこんにち、そんなことを文字通りの出来事として受け取ることなど、どうしてできようかと多くの人は考えてしまいます。
しかし聖書はこんにちなお、神の書として多くの人に読み継がれています。そのなかには、たしかによいことがたくさん書かれてもいます。これを単なる神話やおとぎ話として片付けるわけにはいきません。そのため、聖書学者たちはキリストの復活の記事を合理的に解釈しようとして、いろいろな説明を考え出しました。そのいくつかをあげますと、

A、妄想説
これは、マリヤという女が墓で復活のイエスに出会ったというが、彼女はイエスの死によって衝撃を受けるあまり、心が錯乱状態にあった。そのため墓守の人影を見て、復活のイエスと思い込んだのであろう。いわば妄想にすぎなかったというものです。
B、幻影説
復活のイエスを見たという人たちは、キリストの死によって心が転倒していたこともあって、たんなる幻影を見たにすぎず、それは実際に復活したイエスであったということではなかろう、というのです。
C、欺瞞説
弟子たちは、イエスの死によって失望したとはいえ、生前の主に対する未練をすて切れず、またイエスご自身、よみがえりのことをよく口にしておられたこともあって、彼らは自分たちの信仰の敗北を否定する口実として、イエスの復活を事実のように言い触らした。これを耳にした人々がそれを真に受けて、うわさを広めたため、多くの人があたかもそれが事実であるように信じ込んでしまったのであろう、というわけです。
D、盗去説
弟子たちは、イエスの死体を夜密かに墓から盗み出し、これを別のところに隠してしまった。そのため空になった墓を覗いただれかが、勘違いをしてキリストが復活したと早合点したものにちがいない、という説です。
E、蘇生説
イエスの十字架上の死は、たんなる気絶か失神にすぎなかった。たといそうでなかったとしても、それは仮死状態であったのではないか。それが墓に葬られたとき、地面の冷気に触れて蘇生した、ということではなかったのか。それはほかにもよくありがちなことで、なにも奇跡的なできごとというにあたらないのではないか、いうわけです。
F、地震説
聖書によると、週の初めの朝、大いなる地震があったとある。そのとき、墓の中の地面が裂け、そこにイエスの死体が転がり落ちて嵌まり込んだ。ところが、その裂け目が地震の揺れ返しによって、再び閉じられ塞がって、イエスの死体は墓の中から消えてなくなってしまった。その後、墓にやってきて中を覗いた弟子たちが、イエスの死体がなくなっているのを見て、復活したものと思い込んでしまったのではないか、というのです。

このような説明を聞いて、「なるほど、それならわかる」と納得し、それによって聖書理解のつまずきが解消し、抵抗なく聖書を学びつづけることができる、という人があるのも事実でしょう。
しかし問題は、それがはたして聖書がわれわれに伝えようとする、もともとの意味なのかどうか、にあります。

この点に関して、元東京神学大学の学長・桑田秀延博士は、次のように指摘しています。「各種の主観説は、福音書の記事そのものに基づいているというよりも、結局その記事を合理化しようとする動機から来ている」。
この指摘のように、合理化を目的とする以上のような説明は、人々から聖書理解のつまずきを取り去ることにはなるとしても、それは聖書が伝えようとする本来の意味またメッセージを歪めてしまうことになる危険があるのです。
事実、これらの解釈は聖書の記事と矛盾するものがほとんどです。たとえば、妄想説や幻影説はどうでしょう。弟子たちは、イエスの復活を人々に伝えるに当たって、官憲からこれを伝えることを厳しく禁じられていますが、彼らは口を閉ざすことをしませんでした。イエスの復活が、たんなる妄想・幻影のたぐいにすぎないのなら、これに弟子たちが命をかけることなどありえない話です。まして欺瞞説に命をかけるということも、だまされた人にはありえても、だます人の側に、そんなことができるなどとは、とても考えられません。
盗去説については、その可能性は皆無というほかありません。なぜなら、墓の入り口を塞いでいた石には、ローマ政府の封印が押されており、これを破ると死刑になるはずでしたし、第一墓の周辺は、百卒長の部下であるローマ兵によって厳重に固められていたからです。

蘇生説については、イエスが十字架の上で息を引き取った後、ローマの兵隊が、その死を確認するため、イエスの脇腹に槍を突き刺していますし、当時のしきたりとして、処刑者の死を早める目的で、足の骨を折ることになっていましたが、イエスの場合それは行われなかったようです。理由は、死んだことがあまりにもはっきりしていたためです。
もう一つの地震説ですが、イエスがよみがえったという知らせを受け、それをたしかめるため二人の弟子が墓にいってみたところ、イエスの死体を巻いていた布が、くるめて墓の中に置かれていたと聖書は記しています。地震で割れた地面の中に死体が落ちて埋まってしまったのなら、布も死体と共になくなっているはずです。

このように、合理説は聖書の記事とは別に語られる場合なら、万人を首肯させるだけの説得力をもつとはいえ、聖書の記事と照らし合わせるなら、たちまち矛盾がさらけだされてしまうので、こんにちはもはやだれからも顧みられなくなっています。
このほかに、もう一つの説明があり、これだけはこんにちかなりの人々によって受け入れられています。それは、霊的復活説というものです。すなわち、聖書が伝えるキリストの復活というのは、文字どおりのできごととして言っているのではない。弟子たちはキリストが十字架にかけられて死んだとき、彼らの信仰も同時に消滅したかにみえた。しかし、しばらくすると、キリストに対する尊敬信頼は薄れるどころか、むしろ生前以上に強められ高められていった。こうして彼らは失望から立ち上がり、ふたたび信仰の人、勇気ある人に変えられて、死をも恐れず、キリストが救い主であることを人々に語りつづけてやまなかった。まさにキリストは弟子たちの心の中によみがえったのである。イエスの復活に関する聖書の記事は、そのように理解すべきであるというものです。
しかし、聖書はキリストの復活に関する信仰と証言を、次のように記しています。

「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと…」(コリント人への第一の手紙15:3、4)

もしキリストの復活が、人の心の中の精神的なできごとであるならば、「死んで葬られた」とか、とくに「三日目によみがえった」という言葉は、何の意味があるというのでしょう。「墓に葬る」とか「三日目によみがえった」という表現は、キリストの死も復活も、歴史的に起こったできごとであることを示しているのではないでしょうか。
ですから、世界的に著名なスイスの神学者カール・バルトは、次のように言っています。「(キリストの復活は肉体的な復活のことであって)これが新約聖書の真意である。私たちは、常に自由にそれを拒否してよい。しかし、それに修正をほどこしたり、新約聖書が何かほかのことを語っているふりをしてはいけない。私たちは、そのメッセージを受入れ、あるいは拒否してよい。しかし、それを変更することはいけない」。
イエスの復活について聖書の記事が伝えようとしているのは、文字通りの意味においてであって、それ以外の意味で言っているのでは決してない。あとは、これを信じるかどうかは、読む者また聞く者の側の問題である、というのです。

キリストの復活は必然的出来事である

キリストの復活ということは、人間の知識や経験の領域においては、とても考えられないこと、あるはずのないことのように思われます。
しかし、聖書の教え、とくに神の救いの計画の構造からするなら、これはなくてはならないことであり、あって当然ということになるのです。もしこれがないとしたら、聖書の教え、神の救いはどういうことになるでありましょうか。このことについてパウロは、つづいて次のように言っています。

「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。…もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」(コリント人への第一の手紙15:12-19)

すなわち、もしキリストが事実よみがえらなかったとしたら、キリスト教の信仰は成り立たなくなってしまう、というのです。なぜなら

  1. 神の約束は偽りであったということになるか、反古になったことになる。
  2. 神はサタンに敗北したことになってしまう。
  3. キリストご自身、死の虜となっている以上、どうして罪人を死の奴隷状態から解放することができようか。

さらにパウロは、宣教そのものが無意味であるばかりか、われわれは偽証人になってしまうというのです。なによりもキリスト教の信仰自体、中身が何もないからっぽの信仰ということになり、この信仰をもって死んでいって人たちは、彼らの希望であった復活がないということになれば、彼らが死んだときにもう永久に滅びうせてしまったわけである、と言うのです。
それやこれやで、結局のところクリスチャンはこの世で、もっともあわれむべき存在ということになってしまうというのです。なぜなら、そのようなクリスチャンの希望は、かりに花にたとえるとしたら、それは実を結ぶ可能性のない徒花にすぎないからだというわけです。
以上は、キリストが事実よみがえらなかったのなら、そういうことになるとパウロは言っているのですが、しかしパウロ自身は、そんなはずはないと言っています。

「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」(コリント人への第一の手紙15:20)

これはパウロ自身、クリスチャンを迫害し、多くの命を奪うことさえしていたときに、復活の主が彼にお現れになって、彼を回心させ、使徒として召してくださったという、おどろくべき体験が彼のこの証言を確信に満ちた揺るぎないものにしているのです。

要点の確認

  1. キリストの十字架は、人間の罪の赦しのためであり、これによって救いの道が開かれたわけである。しかしそれは、救いの完成ではない。なぜなら、罪の力は依然として存在しており、罪の結果である苦難と死も解消されてはいないからである。したがって、このあとまだ何かが起こらねばならないはずである。
  2. イエスは生前、十字架の死と共に復活のことをも予告しておられた。そして、その予告どおりのことが起こったのである。
  3. 週の初めの日の朝、女の弟子たちが墓に行ってみると、イエスの遺体はなく、そこに現れた天使から、イエスがよみがえられたことを告げられた。
  4. また、エマオにむかって旅をしていた二人の弟子にもイエスはお現れになった。彼らはエルサレムにいたほかの弟子たちにそのことを知らせた。だが、彼らが信じられないでいると、そこへイエスがお現れになったので、弟子たちはみな信じた。
  5. 残念ながら、そのときトマスという弟子が不在であり、彼が帰って来たとき、それを知らせたが、彼は容易に信じようとしなかった。だが、イエスは彼がいるところにまたお現れになり、十字架の釘痕をお示しになった。こうしてついに彼も信じた。
  6. しかし、復活というできごとは、目撃した者以外これを信じることは容易ではない。そのため、これまでさまざまな合理的解釈というものが試みられてきた。しかし、そのいずれも聖書の記録と矛盾するところから、そうした解釈は、こんにちもはやだれからも顧みられなくなっている。
  7. キリストの復活は,神の救いの計画からすれば、当然なければならないことなのである。なぜなら、もしキリストがよみがえられなかったとしたら、神はサタンに敗北したことになる。と同時に、人類の罪と死の奴隷状態はそのままとなり、そうであれば、人類は結局のところ永遠に滅びるほかはないことになってしまうからである。
  8. しかし、パウロは、「事実キリストはよみがえられた」と確信を持って証言している。それは、旧約聖書に預言されていたことであり、復活はその成就であって、これは起こるべくして起こった当然の出来事なのだからである。

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