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第26課 安息日はいつなのか?

はじめに

一般社会はもちろん、キリスト教会自体、一時神の律法を軽視する風潮がみられました。神の律法はキリストの十字架によって廃されたという考え方によります。もちろんこれは、聖書の正しい理解によるものはなく、人間の勝手な思い込みにすぎないのです。
しかし、最近アメリカを中心に、世の中の道徳観念があまりにも乱れてしまったことに危機感をおぼえ、神の律法を見直そうとする動きが広まっています。
これまで、神の律法は不変であるとして、これを熱心に説いてきたわが教会を、律法主義の教会として異端者呼ばわりをしていた他教会の指導者たちまでが、最近は神の律法を見直してこれを重視するようになり、十戒の解説書が次々と出版されています。
これは大変結構なことで、大いに喜ぶべきことなのですが、ただひとつ腑に落ちないのは、その十戒の第四条安息日に関する戒めだけを別扱いにし、これを軽視する風潮が依然としてあらたまっていないことです。
しかし、こんにちは社会の世俗化が急速に進み、教会に出席する人が激減してきていることもあって、安息日に関する戒めの重要性を再認識する牧師方が増えてきています。にもかかわらず、神が十戒の第四条に定めておられる安息日の真の意味について、その理解と認識が、あまりにも浅薄で不徹底であるのは残念であり、なげかわしいかぎりといわねばなりません。

安息日はどの日か?

安息日の戒めに関する認識の欠如として、もちろん守り方にも大きな問題がありますが、最大の誤りはなんといっても、日時に関するものです。この戒めは、「安息日」とよばれていることからも明らかなように、日に関する戒めなのですが、それはいったいどの日なのでしょうか。
聖書には「第七日」とあって、安息日の日時は神によって明確に示されています。週の第七日はいうまでもなく、こんにちの呼び方では「土曜日」がその日にあたります。ですから、わたしどもの教会は、土曜日を安息日として、これを聖別し、この日に仕事を休み、神を礼拝しています。
これに対して当然のことながら、多くの方々からいろいろな疑問や反論が寄せられています。今回はそうした疑問や反論に、できるだけ明確にお答えすることによって、神が聖書によって命じておられる安息日の戒めについて、正しい理解と認識をもっていただきたいと願っています。

一、第七日(土曜日)はユダヤ人の安息日ではないのか
確かに、旧約時代には、神の選民であるユダヤ人によって、第七日が安息日として守られていたのは事実です。しかし、だからといって第七日安息日をユダヤ人の制度として限定することには、聖書的な根拠があるわけではなく、むしろそれは偏見また誤解以外の何ものでもありません。

  1. 安息日の戒めがユダヤ人の制度というなら、十戒自体が人類共通の律法ではなくなってしまう。
    安息日の戒めは、まえに触れたように、十戒の第四条に定められている戒めなのです。もし、第七日安息日がユダヤ人の制度というなら、十戒そのものがユダヤ人の制度にすぎないことになってしまいます。
    だが、十戒は人類共通の普遍的律法であることが明白である以上、その中の第四条である安息日の戒めも、人類全体を対象とするものであるのは、当然ではないでしょうか。
  2. 安息日の戒めは、ユダヤ民族の発生する以前から存在していたのです。
    ユダヤ人というのは、アブラハムという人を始祖とする民族で、この民族の発生はいまから約四千年前です。しかし安息日の戒めは、創世記2:1-3の聖句にみられるように、天地創造のときに制定されたものなのですから、これをユダヤ人の制度とするのは、聖書的ではありません。
    ですから、イエスご自身も「安息日は人のためにあるもの」とおっしゃって、「ユダヤ人のため」というように、特定の民族に限定する言い方はしておられません。(マルコによる福音書2:27、28)
  3. 安息日の戒めを含む十戒が、成文化して与えられたのは、ユダヤ人に対してでしたが、これが賦与された場所は、神の約束の地であるユダヤの国土ではなく、異邦の地であるシナイ山においてでした。
    このことは、きわめて象徴的な意味をもつものとして無視できないものを強く感じます。すなわち、神の律法である安息日は、ユダヤ人だけが対象ではなく、人類全体を対象とする普遍的なものであることを、これは象徴的に示しているように思われるのです。

二、こんにち一般の教会は日曜日を聖日としているではないか
今日多くの人が、第七日土曜安息日に疑問をいだく理由は、まさにこの点にあるといってよいでしょう。

  1. しかし、実をいえば日曜日は安息日とはなんの関係もない日なのです。にもかかわらず、一般の教会がこれを聖日としているのはどういうわけかといえば、この日はキリストが復活された日だからだ、というのです。確かにキリストの復活は、クリスチャンにとって大切な意味を持っています。キリストの復活がなかったら、キリスト教会も生まれることはなかったでしょう。
    ですから、この日を重視するのは当然であり、この日を記念するのも結構なことです。しかしそれは、十戒に命じられている安息日とは直接関係はなく、まったく別のことなのです。ですから、この日を記念することは、安息日を守ることにはならないのです。
  2. それだけではなく、日曜日を安息日とする人々は、時間からして間違っていることになるのです。なぜなら聖書には、「夕あり、朝あり」とあるように、聖書的には日没から日没までが一日なのです。こんにちでいえば、金曜日の日没から土曜日の日没までが、聖書のいう安息日ということになります。(レビ記23:32、ネヘミヤ記13:19)
    ところが、日曜日を聖日とする人々は、零時から零時までを一日とするわけですから、これだと、聖書的には日曜日の夜半から月曜日の夜半までを聖日としていることになってしまいます。これは矛盾もはなはだしいといわねばなりません。
    なぜそれを問題にするのかといえば、土曜日を安息日とする人々は、金曜日を備え日として、夕刻までにすべての仕事を終え、日没には家族一同集まって夕礼拝を行います。賛美歌を歌い、聖書朗読をし、祈りをもって安息日に入るのです。
    土曜日の午前は教会に出席して公同の礼拝に参加しますが、日没にはまた家族そろって夕礼拝をし、新しい週の旅路に対して、神の守りと導きをお祈りします。
    このように、土曜日を安息日とする人々は、時間から時間までをキチンとおぼえてこの日を聖くすごしますが、日曜日を聖日とする人々は、夜中にぐっすりと眠っているあいだに聖日にはいり、熟睡して何も知らないでいるうちに聖日が終わって週日に入ることになります。これでは、「安息日を覚えて」これと聖とすることなどできるわけがありません。
    日曜日を聖日とする人々は、日そのものに間違いがあるだけではなく、時間的にも不正確であり、日曜・月曜と二日にまたがって安息日をすごしていることになるわけなのです。
    これでは、安息日を神のために聖別しているなどとは、とてもいえなくなります。むしろ、神の日を侮辱し、汚しているといわれても仕方がないのではないでしょうか。

三、一週一日を聖別すればどの日でもいいのではないのか
ある人は、安息日は週のうち一日を聖別すれば、どの日でもかまわないのではないかといいます。しかし、はたしてそうでしょうか。

  1. 安息日は天地創造の記念日です。これを記念し祝うのは、当然、創造のみわざが完成したその日でなければ意味がありません。
    われわれ人間にも、誕生日を祝う慣習がありますが、1月に生まれた人の誕生祝いを、8月に行ったりはしません。それでは誕生日を記念する意味がなくなってしまうからです。
    天地の創造を記念する安息日も同様です。創造のみわざが完成したその日でなければ、これを記念することにはならないでありましょう。一日を聖別しさえすれば、どの日でもという人がいますが、それなら神の創造のみわざを記録する聖句を、日を変えて創造の第七日を第一日と読み換えてみたらどういうことになるでしょうか。


    「こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第一日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終わって第一日に休まれた。神はその第一日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。これが天地創造の由来である」(創世記2:1-4)


    これでは、創造のみわざの記念どころか、意味が支離滅裂で、神の聖なるみわざの破壊以外の何ものでもなくなってしまいます。

  2. 事実、日曜日を聖日とする人々は、この日をキリストの復活を記念する日として憶えてはいても、天地創造の記念日として、この日を守っているわけではないようです。
    いいかえれば、この人々は聖日を守っているといっても、それは十戒に命じられている安息日をおぼえて守っているのではないということなのです。

四、第七日が土曜日であるというがそれは確かなのか?
神の選民であるユダヤ人は、曜日を第一日、第七日と呼んでいました。ところが異教国バビロンでは、天体を神とする信仰から、七つの天体にそれぞれの日を捧げ、きょうは太陽の日、きょうは月の日・・・土星の日という呼び方をしていたといわれます。これは古代カルデヤの占星術で使われていた呼称でした。
それがローマ帝国の時代になると、ユダヤ教とバビロンの宗教とがローマにおいて接触し、両方が民衆のあいだに伝えられ、広まっていきました。それと同時に、日の呼び方もユダヤの呼び方とバビロンの呼び方とが、両方並行して使用されるようになりました。その際、ユダヤ人が第一日と呼んでいた日が、バビロンの宗教が太陽の日と呼んでいた日と同じ日であり、ユダヤ人が第七日と呼んでいた日が、バビロンの宗教が土星の日と呼んでいた日と同じであったのです。
ところが年月の経過とともに、ユダヤ流の呼び方がすたれていき、バビロン流の呼び方が一般化して、日・月・火・水・木・金・土という呼び方が普及し今日に及んでいるということのようです。

五、七日のめぐりに狂いはないのか?
安息日は第七日というけれども、聖書によると、人間の歴史は少なくとも六千年という。そのあいだに、七日のめぐりに間違いや狂いが、まったくなかったのかどうか。この懸念は当然といえなくもありません。
しかし、よく調べてみると、そうした懸念は杞憂にすぎないことがわかります。

  1. 少なくとも、いまから3500年前までは、第七日がどの日かはっきりしていて、疑いの余地はまったくありませんでした。
    エジプトから救い出されたイスラエルの民は、約束の地カナンに入るまで、40年もの間、砂漠の旅を続けたのですが、そのあいだ神は天使の食物であるマナを降らせて、イスラエルの民を養われたのです。
    そのマナについて、神は、第一日から第五日までは、その日必要なだけを集めるように、ただし第六日目には、翌日の分をも含めて二日分を集めるように、とお命じになりました。そのかわり第七日目には、マナは降らないので集めに出たりしてはならないとおおせになりました。(出エジプト記16)
    以上によって、神はどの日が休むべき日であるかを、神ご自身がはっきりとお示しになったのですから、七日の巡りについて狂いがあったかどうかについては、懸念や疑いの余地はまったくありえません。
  2. では、いまから2000年前はどうかといいますと、神なるイエスが人間の姿をとって歴史上にお現れになり、すべての点において、われわれのために模範となる生活をお送りになりました。そのイエスの生活は、いうまでもなく神の律法に従い、当然安息日もお守りになったのでした。
    その際イエスは、どの日を安息日として守られたのでしょうか。もちろん、当時のユダヤ人が守っていたその日をお守りになっています。神であるイエスがお守りになった日である以上、その日が第七日であることを疑う必要など、どこにもありはしません。
  3. イエス以後は、天文学が発達し、トレミー暦により、いまからでも当時の日時と曜日が、すべて計算ではっきり出せるそうですから、問題はないものと思います。
  4. しかし、これまで暦の改訂が何回か行なわれているはずです。そのときに、週のめぐりに変化や狂いが生じたということは、はたしてないのでしょうか。これはだれもが疑念をいだく点にちがいありません。しかし、これもよく調べてみれば、問題のなかったことがわかります。
    最初の改訂は、1582年教皇グレゴリウス13世の命によって行われています。それまで用いられていたユリウス暦は、1年を365日4分の1と計算していたのですが、これは11分14秒の誤差があり、暦と季節が10日もずれてしまっていました。
    そのため暦を季節に合わせるには日にちを飛ばす必要があったのです。そこで10月4日の翌日を15日としました。ずれていた分を10日飛ばしています。そうすると、週のめぐりも当然狂ったはずではないかと思われがちですが、実はそうではなかったのです。
    なぜなら、10月4日は木曜日でしたが、10日飛ばした翌日の15日は金曜日となっていますので、日は飛んでも曜日は木・金と続いていて、変化はなかったのです。
  5. 第七日のめぐりが、こんにちの土曜日にちがいない何よりの証拠は、ユダヤ人の守っている安息日です。かれらは、天地創造のときから絶えることなく、安息日を守り続けてきている、いわば神の民の信仰と、律法遵守を継承する唯一の民族です。ことに、この民が神の選民とされ、神から十戒を授けられたとき、第四条の安息日について、次のように命じられていたのです。


    「あなたがたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたがたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたがたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである」(申命記5:15)


    ユダヤ人は、この神の命にしたがって、こんにちまで安息日を連綿と守り続けてきた唯一の民族です。その彼らが、こんにち守っている日はどの日かといえば、それは土曜日なのです。これこそは、第七日安息日が土曜日にちがいないという、何よりの確かな証拠ではないでしょうか。

六、安息日はどの日であってもかまわないのでは?
ある人たちは、安息日に関し、どの日というふうに、特定の日を定めてこれにこだわることには意味がない。曜日はどの日もみな聖なる日と考えるべきであって、特定の日だけを聖とするのはあまりにも形式主義的で感心しないというのです。しかし、これに対して英国国教会の監督ジョン・チャールス・ライル博士は、次のように反論しています。
「真のクリスチャンに対して『毎日毎日が神聖な日であるべきだ』との議論があり、これに基づいて一週のうちの一日を聖別することを非難するする人々がある。これらの人々は善良な人々であることは認める。私はだれであっても『毎日が神聖な日である』との主張に対して、そのこと自体には同意するが、しかしこれは不健全な考え方であり、何よりも非聖書的であると信ずる。
人間の自然性からして、すべての日を主の日として尊重するという企ては、結局のところ、神聖な主の日を全然なくしてしまうという悪い結果に陥るであろう」。
さらに、わが日本の代表的聖書研究者として世界的にも著名な内村鑑三氏も、同じ指摘を行っています。
「『安息日を憶えてこれを聖くすべし』という。『聖くすべし』とは、神に属するものとして、これを使用すべしとのことであって、もちろん一週間いずれの日も、神聖なものであって、第七日のみが特に神に属するものではない。しかし、人の世にある間は、その業務の大部分は、(多くの人にとりては、殆どそのすべてが)自己のためであることを知って、七日に一日を特に神のために使用すべしとの戒めの最もよく実際に適合したものであることが解る。人が一週七日を悉く聖日となさんことは最も望ましきところなれども、然れど第七日を憶えざる者は、大抵はこの日をして、他の日のごとくならしむるものである。安息日の聖守はすべての日を聖くするために必要である。しかして、この箇条が十戒の中に加えられしその目的の一つは、人の全生涯の聖化にあることは確かである」。
週のすべての日を聖とすることは、どの日も同じ日とすることになってしまいます。これは神の聖なるものと人の俗なるものとを同列におくことによって、両者の区別やちがいをなくしてしまうことになり、それは結果的に、特別の聖なる日そのものの存在を無意味にし、没却させることになるだけでありましょう。

七、こんにち日曜日が聖日とされているのはなぜなのか
安息日が特定の日でなければならない理由を、一応認めるとしても、それなら、こんにち日曜日が聖日とされているのはなぜなのか。聖書には安息日が第七日と記されている。それなのに、週の第一日である日曜日を聖日としているのはどういうわけなのか、これは当然の疑問です。
この日曜日というのは、そもそもどういう日かといえば、実はこれはキリストが復活された日なのです。これをカトリック教会は、天地創造の記念日以上に重視し、この日を新約の教会の聖日とすることにしたのです。ということは、神が聖書によって命じておられる第七日安息日を、カトリック教会は第一日、日曜日に変更したということなのです。
このことは、カトリック教会自身はっきり認めており、そのように主張もしています。

問「どの日が安息日ですか」
答「土曜日が安息日です」
問「何故土曜日の代わりに日曜日を守るのでしょうか」
答「私たちが、土曜日の代わりに日曜日を守るのは、カトリック教会がその祭典を(礼拝日)土曜日から日曜日に移したからです」(1977年版の「改宗者のカトリック教理問答」)

いったいカトリック教会は、どういう権限によって神の律法安息日の日を変更したのでしょうか。それはカトリック教会自身、神から授けられている権限によると主張していますが、それはしかし、彼らの独断であって聖書に確かな根拠があるわけではありません。たとい、聖書から根拠を示すとしても、それは明らかなこじつけにすぎないのです。
にもかかわらず、彼らは、その変更した日曜日を、カトリック教会の権威の証拠またしるしとしています。
ところでこんにちカトリック教会はもちろんのこと、プロテスタント諸教会も、そのほとんどが日曜日を礼拝日にしているのはどういうわけか。ここには大きな矛盾が横たわっています。
宗教改革者マルチン・ルターは「われわれの信仰は、教会の伝統ではなく、聖書が人生の導き手である」と主張しました。「聖書、そして聖書のみ」これがかれの標語であったのです。
このルターの主張に対して、カトリックの信仰の擁護者ヨハン・エックは、「教会の権威は聖書の上にある」という主張によって、ルターを攻撃し、とくに聖書の安息日の代わりに日曜日を遵守している点を取り上げて、その矛盾を衝き、次のように追究しています。
「聖書は『安息日を覚えてこれを聖とせよ。六日の間働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神主の安息日であるから』と教えている。にもかかわらず、教会はその権威をもって安息日を日曜日に変えた。この点において、あなた(ルター)は聖書に基づいていない」。

このルターの信仰を継承するプロテスタント諸教会は、安息日に関するこの矛盾を抱え込んだ状態のまま、こんにちに及んでいるのです。
このように、日曜日をいまなお聖日としているプロテスタント教会は、いうならば、それによってカトリック教会の権威を認め、その権威に服していることになるわけなのです。
ですから、カトリック教会は事実次のように主張しています。
「新約聖書の中で、キリストが礼拝の日を土曜日から日曜日に変更したことを明示しているところは、一カ所もない。しかしながら、セブンスデー・アドベンチストを除くすべてのプロテスタントは日曜日を守っている・・・プロテスタントは日曜日を守ることによって、伝統(注・カトリック教会の伝統と権威)に従っているのである」(アワー・サンデー・ビジター誌)。
それにもかかわらず、もしプロテスタント諸教会が、カトリック教会の権威のシンボルである日曜日を聖日として守り続けるとするならば、それは改革者としての本分を忘れ、プロテスタントとしての本来の使命を、もはや見失ってしまっているといわれても仕方がないのではないでしょうか。
これはキリスト教会にとって、信仰の根本にかかわる重大な問題といわねばならないでしょう。

むすび

こんにちカトリック教会はもちろん、プロテスタント諸教会も、キリストの復活を記念する日曜日に礼拝をおこなっています。しかも、それによって、十戒の第四条に命じられている安息日を守っているつもりでおられるのでしょう。
しかし、安息日は天地創造の記念日であり、日曜日はキリストの復活を記念する日なのですから、日曜日を守っても、それは安息日を守ったことにはならないということを、はっきりと認識する必要があります。
以上によって、十戒の第四条に命じられている安息日はどの日であるか、明確になったはずではないかと思いますがどうでしょうか。
安息日は、天地創造の記念日であると同時に、新天新地における永遠の安息のひな型でもあります。われわれはこの日を憶えることによって、創造主なる神への信仰をたえず確認しながら生活をするのです。
それと同時に天国の永遠の安息を待ち望み、その前触れとしての安息、その確証としての霊的安息を、毎週身をもって体現することができるのです。そしてこれは、われらがみずからの救いを確かなものにするために、とても大切な意味をもつことなのです。

「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである・・・したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」(ヘブル人への手紙4:9-11)

要点の確認

  1. 安息日の戒めは、ユダヤ人の戒めで自分には関係がないと思っている人がある。しかし、この戒めが制定されたのはユダヤ民族の発生以前であり、イエスも「安息日は人のためにある」といっておられるように、人類全体を対象に与えられた戒めなのである。
  2. こんにち一般の教会が日曜日を聖日としているのだから、それでよいのではとの反論もある。しかし、日曜日はキリストの復活を記念する日ではあっても、安息日とは関係のない別の日なのである。
  3. 一週一日を聖別すればどの日でもよいのではという主張もあり、だいたい週のめぐり自体、はたして確かなものかどうか解らぬではないかとの疑念を抱く人もいる。しかし、いまから3500年前、神はマナという食べ物を降らせるその降らせ方によって、どの日が仕事を休むべき安息日かをはっきりとお示しになった。さらに、いまから2000年前は、神なるイエスが人間の姿をとって歴史上に現れ、この地上で生活された。そのさいイエスの守られた日は第七日であった。神なるイエスの守られた日である以上、その日が第七日であることに、間違いのあろうはずはない。
  4. 新約時代になって、暦の改訂が行われているが、日はとばしても曜日のめぐりに変更は行われていない。
  5. 天地創造の時から、第七日を安息日として守ってきた人々の信仰を継承しているユダヤ人が、こんにち守っている安息日は、土曜日なのである。第七日がこんにちの土曜日であることは、これによって立証されているといってよい。
  6. 安息日は天地創造の記念日であると同時に、天国の永遠の安息の予型、また予約券のようなものでもある。われわれはこの日を聖別し、神を礼拝する。こうして、神との結合を確かなものとすることにより、いまから神の国(恵みの王国)の生活を送る者となる。それと同時に、そのような生活を続けることによって、やがて天国(栄光の王国)の門を通って神の都にはいり、永遠の安息の国の住民となるという、その幸いなときを迎えることになるのである。

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