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第31課 受け入れられる祈り

1. 祈りとは何ですか

「祈りは、魂の底からの望みを表現したものです。友に対するように、神に心を開くことです。」キリストへの道 112ペ-ジ

「民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」詩篇62 : 8(注1)

2. 神は私たちの祈りを聞かれますか

「わたしが声をあげて主に呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。」詩篇3 : 4

「わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。」詩篇34 : 4, 6

3. 受け入れられる祈りの第一段階は何ですか

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」ヘブル11 : 6

4. 真の祈りの土台となるものは何ですか

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」ヨハネ15 : 7(注2)

5. 求めたものに対する私たちの心の状態は、どうあるべきですか

「『父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください』。」ルカ22 : 42

6. 間違ったことを願うことができますか

「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」ヤコブ4 : 3

7. 私たちはどんな確信を持って神のみもとに行くべきですか

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」マタイ7 : 7-12(注3)

8. すぐ答えが与えられないからといって、神が私たちの祈りをお聞きになるかどうかを疑ってもよいでしょうか

「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。」ヤコブ1 : 6

9. 神は、どんな場合に、私たちの祈りをお聞きにならないのでしょうか

「もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。」詩篇66 : 18

「ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。」イザヤ59 : 2

10. 神のみ旨に不調和なものを自分の中に見いだしたときは、どうすればよいでしょうか

「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。」イザヤ55 : 7

11. 他の人を正しく扱わないときに、神は私たちの祈りをお聞きになりますか

「また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。〔もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう〕。」マルコ11 : 25, 26

12. ゆるすとはどういうことでしょう

それは、悪いことをした人を、全く悪いことをしなかったように扱うことです。

「それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。「そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう。」マタイ18 : 23-35

「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。」マタイ5 : 23, 24

13.私たちはどのくらい祈るべきでしょうか

「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。」ルカ18 : 1

「絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」テサロニケ第一5 : 17, 18

「望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。」ローマ12 : 12(注4)

14. 私たちはどのような祈りの習慣をもつべきでしょうか

「主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。わたしは朝ごとにあなたのためにいけにえを備えて待ち望みます。」詩篇5 : 3

「夕べに、あしたに、真昼にわたしが嘆きうめけば、主はわたしの声を聞かれます。」詩篇55 : 17

15. 人が祈り求めて受け入れられなかったという記録がありますか

「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」コリント第二12 : 7-9(注5)

16. イエスは試みが私たちに迫ってきたとき、どうしなさいと言われましたか

「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。『ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』。そこで主は言われた、『この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。」ルカ18 : 1-7

17. 受け入れられる祈りの例としてだれがあげられていますか

「エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。」ヤコブ5 : 17, 18

注釈

【注1】
「祈りは、不本意な神を動かすことではなく、神が喜んでおのべになる助けをつかむことである。」「祈りは、友に対するように神に心を開くことである」。祈りは神を変えるのではなく、私たちを変え、私たちと神との関係を変えます。祈りはまた私たちを祝福の道に置き、神が常に私たちの求めを聞き、かつ、かなえてくださるような心の状態におきます。

【注2】
「祈りが聞かれ、助けを得ることができるようにするには、我々はどう祈ればよいか。まず、我々の心のうちに、真の欲求がなければならない。言葉だけでは祈りにはならない。わたしどもは何かを欲し、それを得るには神に頼るべきことを認めなければならない」。J. R Miller, D.D.

【注3】
ねばり強いやもめは、そのねばり強さのゆえに求めがかなえられました。神は、私たちが祈るとき、彼に求めるように、しかも、熱心に求めるように望んでおられます。主は忠実に彼を求める者に報われるお方です。(ヘブル11 : 6)

【注4】
これは何も、私たちが絶えず祈りのうちに神の前に頭をたれていなければならないというのではありません。その意味は、祈りをおろそかにしてはならないということです。道ばたを歩いているときも、日常の務めにいそしんでいるときも、必要なことが起こったときにはいつでも、祈りがささげられるような心の状態でなければなりません。

【注5】
パウロの苦しみは、目が悪かったことだったようです。(使徒行伝9 : 8, 9, 18、22 : 11-13)とするならば、この不完全さは、彼に絶えず自分の悔い改めを思い出させました。それは姿を変えた祝福でした。

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