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イエズス会フランシスコ法王の訪日に際して

イエズス会フランシスコ法王の訪日に際して

イエズス会フランシスコ法王の訪日に際して

2019年11月19日
サンライズミニストリー




キリストの福音は、その信者たちに、危険を冒し、苦難に耐え、寒さ、飢え、労苦、貧困にもめげず、真理の旗をかかげ、拷問も投獄も火刑も恐れない力を与えてきた。この勢力に対抗するために、イエズス会は、その会員を狂信的にさせ、同様の危険に耐えるように、またあらゆる欺瞞の武器をもって真理の力に対抗するようにさせた。彼らは、どんな犯罪を犯しても罪にならず、どんな欺瞞を行ってもかまわず、どんな偽装もわけなくできた。彼らは、一生の間貧困と質素な生活を送ることを誓ったが、その目的とするところは、富と権力の獲得であり、プロデスタント主義をくつがえし、法王至上権を復興することであった。

彼らは、会の会員として活動する時は聖衣をまとい、牢獄や病院を訪ねて病人や貧者に奉仕し、世俗を捨てたことを公言し、よい働きをしながら巡回されたイエスの清い名を帯びていた。しかし、この潔白な外観のかげに、しばしば、極悪非道な目的が隠されていた。目的は手段を正当化するというのが、会の基本原則であった。この規定によって、虚偽、盗み、偽証、暗殺などは、教会のために役立つならば許されるだけでなく、賞賛すべきものであった。さまざまな偽装のもとに、イエズス会の会員たちは、国政にまで手を伸ばし、国王の顧問の地位について、国家の政策をまとめた。また、人々の様子を探るために、そのしもべとなった。彼らは、王侯、貴族の子弟のための大学を設立し、一般の国民のための学校を建てた。そして、プロテスタントの親の子供たちは、カトリックの儀式を守るように影響された。ローマ・カトリックの礼拝の華麗な様子は、心を混乱させ、想像力を眩惑し魅惑した。こうして子供たちは、彼らの父たちが苦難と血によって得た自由を売り渡してしまった。イエズス会は、ヨーロッパに急速にひろがった。そして、彼らの行ったところは、どこでも法王権が勢力を回復した。

法王制の本質
ローマ・カトリック教会の中に真のキリスト者たちがいることは事実である。この教会の幾千の者は、自分たちに与えられている最善の光に従って神に仕えている。彼らは、神の言葉を手に入れることが許されていない。だから彼らは、真理に気がつかないのである。彼らは、生きた、心からの奉仕と、単なる形式や儀式のくり返しとの間の、著しい相違に気づいたことがなかった。うわべだけの、満たされない信仰の中で教育されたこれらの人々を、神はやさしい憐れみをもってごらんになる。神は、彼らをとりまいている濃い暗黒に光が射し込むようにされる。神がイエスのうちにある真理を彼らに示されるので、やがて多くの者が神の民とともに立つのである。

しかし1つの制度としてのローマ・カトリックは、この教会の歴史上のどの時代においてもそうであったように、今日でもキリストの福音と調和するものではない。プロテスタント教会は大いなる暗黒の中にある。そうでなければ、彼らは時のしるしを見分けるはずである。ローマ教会の計画や運営方式には遠大なものがある。この教会は、再び世界を支配するために、また迫害を復活させるために、またプロテスタントが行ったすべてのことを無効にするために、激しい決定的な戦いの準備として、その感化力を広げ、その勢力を強めようと、あらゆる手段を用いている。カトリック教は至るところに地歩を占めつつある。プロテスタント諸国において、カトリックの教会や礼拝堂が数をましているのを見られよ。

米国において、カトリック教の大学や神学校が人気を集め、プロテスタントに広く後援されているのを見られよ。英国における儀式主義の発展や、カトリック教会へ入るために新教から脱落する者が多いことを見られよ。こうした事柄は、福音の純粋な原則を尊ぶすべての者が憂慮しなければならないことである。

プロテスタントは法王制によけいな手出しをし、後援してきた。彼らは、法王教徒自身が見て驚き、理解しかねるような妥協と譲歩をしてきた。人々は法王 制の真の性格、またこの教会が支配権を得た時心配される危険に対して目を閉じている。政治的また宗教的自由に対するこの最も危険な敵の進出に反対するように、人々は目覚める必要がある。