よくある難解な聖句

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Q&A

安息日―神を礼拝する日はいつでもいいか?

2013年1月23日Tag: 安息日

安息日―神を礼拝する日はいつでもいいか?


Q.安息日―神を礼拝する日は、いつでもいいか?
礼拝日は、一週のうちどの日でもいい。日曜日であろうが、土曜日であろうが、真心から神を礼拝すればどの日でもいいのである。ローマ書14:5にそうパウロは教えているのではないか?

A.聖書を解釈するには、少なくとも二つの大事な原則がある:
①聖句の文脈を見ること。②聖書全体の教えと照らし合わせることである。そうしないと、矛盾がいくつでも出てきて調和にかけてくる。結果は限りなく分派が出てくることになる。

聖書を読んでみよう: 「また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。」ローマ人への手紙14:5

文脈を見てみよう: 「信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する」ローマ人への手紙41:1-6。

パウロは、ここで論じているのは、食べ物のことについてである。さらに、17,21節にも飲食について論じている。1節から始まった文脈の連続で、その中に日のことまで言及しているのは第七日安息日のことでなく、ユダヤ人が守っていた祭りに関する安息日のことである。

パウロは、旧約聖書に精通していて、清い食べ物、汚れた食べ物について、また、信者は何でも食べていいというのではなかった。健康のことに留意することは、信者にとってどんなに重要であることは、1コリント6:19-20、2コリント7:1、1テサロニケ5:23でも分かる。野菜を食べる人は、信仰の弱い人であろうか。誰もそうは考えないであろう。

従って、ここでは、十字架において廃止されたユダヤ制度の飲食や祭りの定められた日などに関することを言っているのである。コロサイ2:16に「だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない」と書いてあるように個人の信仰と良心の問題である。これらの規定は礼典律と呼ばれ十字架までのことである。十戒は道徳律であり永遠に続くものである。

決して十戒の第4条の安息日のことではない。創造と贖罪の記念日である第7日安息日は、創造の時に神ご自身「祝福」し、「休まれ」、「聖別」された。更に主ご自身「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」と言われた。安息日については、「わが安息日を聖別せよ、これはわたしとあなた方との間のしるし」であると言われた(エゼキエル20:12、20)。また、イエスは「安息日の主」である(マタイ12:8)とも言われた。安息日遵守は天国までも永遠に続くものである(イザヤ66:23)と聖書は言っている。従って、ここは十戒の第7日安息日のことを言っているのではないことは明白である。

ローマ14:5の「どの日も同じ」であると書いてあるが、どの日でも創造主の礼拝日としていいというのではない。「~と同じ、alike」は、翻訳者が付け加えた言葉である。週のどの日でも同じだから、どの日を礼拝日としてもいいということではない。安息日は、創造主の権威のしるしで「聖別」された日である。ローマ・カトリック教会は、教会の権威で週の第七日目から第一日目に変えたと主張しているが、それはイエス・キリストが日曜日に復活された理由によるというのである。主ご自身、毎安息日に会堂に行かれたし、弟子たちも主が死なれてからも安息日を守り続けた(ルカ23:56、24:1)。

出エジプト16章を見ると、4節に、「毎日」マナが集められたが、「聖安息日」には集めてはならなかった。 従って、ローマ14:5の聖句は、安息日礼拝を週のどの日にしてもいいと教えてはいないということが分かる。聖書は、文脈と聖書全体から解釈しなければならない。


ロン・ワイヤット―考古学発見に関する質問

2013年2月11日Tag: 聖書考古学

1.箱舟の入り口は、真ん中にあったのですか、それとも先端部にあったのですか?

創世記6:16 箱舟に屋根を造り、上へ一キュビトにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、一階と二階と三階のある箱舟を造りなさい。

あけぼの上89-93「それは3階建てで、ただ一つの入り口が横についていた

聖書も「横に」とだけ言っているのであって、横、あるいは側の中央か、先端部かについては言及していない。

2.一般的にケルビムは、契約の箱の上に置かれているように描かれていますが、ロン・ワイヤットは契約の箱の両側にあったと言っています…。

a. 聖書によると憐みの座の上にケルビムが置かれている。

b. 聖書の二つのケルビムは高く「ケルビムの翼を伸ばしたところ、このケルブの翼はこの壁に達し、かのケルブの翼はかの壁に達し、他の翼は宮の中で触れ合った」と表現されている。列王上6:23-28.

この主張で、「もし契約の箱がロン・ワイヤットの見たようなものであるなら、本物でなく、いんちきもの」として批評家たちは、彼の発見を拒んでいる。では検証してみよう:

憐みの御座の上にケルビムは置かれた?

出エジプト記25:22 には「あかしの箱の上にある二つのケルビム」とある。

英語では、「upon the ark of the testimony」となっている。

25:19 And make one cherub on(4480) the one end, and the other cherub on(4480) the other end: even of the mercy seat shall ye make the cherubims on(5921) the two ends thereof.

37:9 And the cherubims spread out their wings on high, and covered with their wings over(5921) the mercy seat, with their faces one to another; even to the mercy seatward were the faces of the cherubims.

出エジプト25:19と37:8にヘブル語のon(4480)は「MIN」という言葉で、通常「fromから、above上、out ofから」とか他にもいろいろな意味がある。日本語では口語訳も新改訳も新共同訳も同じように贖罪所の両端にと訳している。「一つのケルブをこの端に、一つのケルブをかの端に置いた。すなわちケルビムを贖罪所の一部として、その両端に造った」。

一方on(5921)25: 19には「AL」という言葉も使っている。これも「on,上beside側、端、against相対して、connected toにつながって」といろいろある。

※一つの言葉を解釈するとき、前後関係を見ることが重要である。ある先生が「My mother is kind」という文章を訳しなさいと生徒たちに言った。ある生徒は「私のお母さんは親切である」と訳し、ある生徒は「私のお母さんは種類である」と訳した。

この「AL」の使い方を聖書で見てみよう。

サムエル記下20:8 「時にヨアブは軍服を着て、帯をしめ、その上にさやに納めたつるぎを腰に結んで帯びて「sword fastened upon (“AL”) his loinsいたが、彼が進み出た時つるぎは抜け落ちた。

雅歌3:8 皆、つるぎをとり、戦いをよくし、おのおの腰に剣を帯びてon (“AL”) his loins、夜の危険に備えている」。

出エジプト記12:7 その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。「And they shall take of the blood, and strike it on (“AL”) the two side posts and on (“AL”) the upper door post of the houses…”

英語で “putting “ON” a sword”, また“putting blood “ON” a doorpost”というとき何を意味するかを誰でも分かるであろう。

出エジプト記27:21 アロンとその子たちとは、会見の幕屋の中のあかしの箱の前(“AL”)にある垂幕の外で、夕から朝まで主の前に、そのともし火を整えなければならない。これはイスラエルの人々の守るべき世々変らざる定めでなければならない。「...の前にある」という使い方もしている。

英語でこんな表現がある:put on one’s clothes服を着る

put on one’s shoes靴をはく

put on one’s glasses眼鏡をかける

wheels ON a carというときも、必ずしも自動車の上にタイヤを取り付けるという意味ではない。

スタディバイブルの列王上6 : 23-18の注解に「契約の箱のそばに置かれた二人の天使―最も壮麗な至聖所が、山でモーセに示された型に従って作られた。そして、その後主によってダビデに示された。契約の箱の上のケルビムに加えて、ソロモンは箱の各々の端に立たせる他のもっと大きな二人の天使を作った。それは、神の律法を守る天の御使たちを表していた。この至聖所の美しさと輝きを描写するのは不可能である。この場所に、神聖な契約の箱が祭司により厳粛に崇敬の念をもって設置された。そして、その場所の床に立っていた二人の威厳あるケルビムの翼の下に置かれた(RH 1905年 11月9日)

A most splendid sanctuary had been made, according to the pattern showed to Moses in the mount, and afterward presented by the Lord to David. In addition to the cherubim on the top of the ark, Solomon made two other angels of larger size, standing at each end of the ark, representing the heavenly angels guarding the law of God. It is impossible to describe the beauty and splendor of this sanctuary. Into this place the sacred ark was borne with solemn reverence by the priests, and set in its place beneath the wings of the two stately cherubim that stood upon the floor. {RH, November 9, 1905 par. 7}

霊感の書「贖いの歴史-(元生き残る人々)」189:

「贖罪所の両端には、やはり純金だけで作られたケルビムがすえつけられていた。ケルビムは互に向かい合って、うやうやしい様子で下の贖罪所の方を見ていたが、それはすべての天使たちが天の幕屋にある箱の中に納められている神の律法おきてを、関心と敬虔な思いをもって見ていることをあらわした。ケルビムは翼をそなえていた。天使の一方の翼は高くひろげられ、一方の翼は自分の姿をおおっていた。地上の聖所の箱は、天の真の箱の型だった。天の聖所では、箱の両端にそれぞれ生ける天使が立っていて、一方の翼は高く伸ばして贖罪所をおおい、一方の翼は体の前に折りたたんで敬虔と謙遜をあらわしている」。

  1. 地上の契約の箱は、天の契約の箱のひな型であった。
  2. 天の箱の両端に天使は立っていた。
  3. 従って地上の契約の箱の両端にケルビムが立っていたことが結論づけられる。

イザヤ書6:2 その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、

エゼキエル書1:11 彼らの顔はこのようであった。その翼は高く伸ばされ、その二つは互に連なり、他の二つをもってからだをおおっていた。

一般に描かれているケルビムは、契約の箱の上に足を置いて立ったり、あるいは座ったりしている。ロン・ワイヤットの描写が霊感の書に最も調和しているのではないだろうか? 神の聖なる御座の周りにおける天使たちのうやうやしい敬虔な態度を表すのにふさわしいのではないだろうか?


1844年以降、時の預言はもうないのか?

2015年3月24日Tag: 時のしるし

1844年以降、時の預言はもうないのか?



カインに付けられたしるしとは?

2015年6月16日Tag: 聖書

カインに付けられたしるしとは?


創世記4:15に主がカインにしるしをつけたとありますが、どういう意味ですか。

カインはアダムの長男でした。弟は神の言われた通りの捧げものを忠実に捧げましたが、兄は自分の考えで良いと思うものを捧げました。神はアベルを受け入れ、カインは受け入れられなかったので、兄は弟を殺しました。そこで、主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、「彼に一つのしるしをつけられた」とあります。

このしるしが何であるかは知られていません。インドの婦人たちが額につけるような目に見えるものではないでしょう。666というような入れ墨のようなものでもないでしょう。しるしというのは必ずしも目に見えるしるしではありません。「あの人は目を付けられている人」、と言ったりする場合があります。

つまりあの人と関わったら問題になる、呪われるよというようなものでしょうか。殺人者のカインと関わる者は「七倍の復讐を受ける」と言われています。カインが殺人の罪を犯したから殺せとは神はお命じになりませんでした。復讐に復讐で答えるのが人間のすること。神はローマ12:19に「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いています。

黙示録を見ると、世の終わりに、神に反逆する者たちは「獣の刻印を受け、神の刑罰を受ける」と書かれています(黙示録13章、14章)。その代りアベルのように忠実な者は、「生ける神の印」を受けるのです。黙示録7章。彼らはキリストの再臨に備えて大いなる患難を通って主を迎える人々で「純潔で、口に偽りのない者で、小羊が行く所へは、どこへでもついて行く」人々です(黙示録7章、14章)。

また、エゼキエル9章には、悪を憎み、嘆き、悪から遠ざかる者は、「しるし」がつけられると言われています。これも見えるしるしではないはずです。(エゼキエル9:4)。


ミカエルの謎

2015年8月17日Tag: 時のしるし

By Doug Batchelor ダグ・バチェラー AMAZING FACTミニストリーの主幹

キリスト教界でミカエルという謎的な人物は誰かということがしばしば質問されます。ミカエルは、「御使のかしら」、「大いなる君ミカエル」とも呼ばれています。ある人々は、ミカエルは天使の最高位につくもの、または、守護のケルブの一人である、あるいは、ガブリエルのような特別なメッセンジャーであると主張します。したがって、彼は被造物であることになります。また、他の人々は、聖書注解者マシュー・ヘンリー(Matthew Henry)のように、ミカエルとはイエス・キリストご自身の多くの名前のうちの一つであると主張します。我々は、このミカエルという謎の存在を明確に知ることができるでしょうか? 知ることができるとすれば聖書に謎を解く鍵があるに違いありません。「それは教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則。ここにも少し、そこにも少し教えるのだ」(イザヤ書28:10)。

聖書の用語索引を引くと、ミカエルという名は聖書(新欽定訳)に15回出てきます。そのうち、10回は単にミカエルという名の人間です。ギリシャ語・ヘブル語辞書で「ミカエル」を調べると、「1人の天使のかしらと9人のイスラエル人の名」とあります。10回のうちの最後の5回に出てくるミカエルは天使のかしら、そして君であります。このお方についてここで研究します。

ミカエルに関するこれら最後の5つの聖句のうち、最初の3つは旧約聖書のダニエル書10:13, 21、12:1にあり、最後の2つは、新約聖書のユダ9黙示録12:7にあります。聖句と聖句を比較してよく調べると、ミカエルの正体は、イエス・キリスト以外の何ものでもないことが分かります。すなわち、ミカエルは、創造された天使あるいはケルビムではありません。ミカエルという名は、神のみ子の多くの崇高な肩書のうちの一つなのです。

一見すると、旧約聖書は、ミカエルを君として描いているようですが、新約聖書はミカエルを天使のかしらとして説明しています。しかし、似た言葉が用いられている、他の関連聖句を見てみると、興味深いパターンが浮かび上がってきます。

研究を進める前に次のことを考えてましょう。「天使」という言葉は、メッセンジャーという意味であり、聖書で非常に広く使われています。ある時には、聖書で、人間が天使と呼ばれています。1サムエル 29:9(「神の使」は新欽定訳では“an angel of God”)、 ガラテヤ4:14「神の使」は新欽定訳では“an angel of God”)。またある時には天使が人間と呼ばれています。創世記 32:24「ひとりの人」は新欽定訳では“a Man”)。また他の聖句では、これから紹介しますが、神ご自身が天使と言われているところもあります。天使も、もちろん天使と呼ばれています。

普通、天使というとき、仕える霊であり、翼を持つセラピム、あるいはケルビムをイメージします。イエスと違って、これらの天の存在は被造物です。イエスは、地上に来て受肉する前は、言うことを聞かない仲間の天使ルシファーと争う、ただの力強い天使であったのだと、あるカルトの人たちは教えます。だから、イエスは父なる神によって創造された者であって、クリスチャンたちが信じているような永遠の神ではないとしています。この研究はその考えを拒否します。イエスは、今も、そして常に、神の永遠のみ子であり、実に神ご自身であります。この研究の中で、天使としてイエスを表現しているのは、単に伝統的に、最も偉大な救いのメッセンジャーであるという意味であって、彼の永遠の神格を低めようとする意図は全くありません。

鍵は名前にある
まず、いくつかの言葉や名前の意味について考えます。ギリシャ語の新約聖書では「angel」(発音:エンジェル)とは「メッセンジャー」という意味です。そして「arch」(発音:アーク)とは「かしら、長、最も偉大な、あるいは、最高の」という意味ですから、「archangel[御使のかしら]」(発音:アークエンジェル)とは単に「最高、あるいは、最も偉大なメッセンジャー」という意味です。旧約聖書にみられる「ミカエル」というヘブル語の名前は「神のような者」、ときには、質問の形で「神のような者は誰か?」という意味です。ですから天使のかしらミカエルという肩書は「神であられる最も偉大なメッセンジャー」とも訳され得るものです。この名前が質問であろうと、声明であろうと、挑戦であろうと、その意味は更に詳しい研究によって明確になることでしょう。ひとりの天使が神のようになろうと心のうちに言いました。天の宮廷から落ちた、その守護のケルブはルシファーでした。「いと高き者のようになろう」(イザヤ14:14)と言って悪魔あるいはサタンとなりました。黙示録12:7において、サタンは「ミカエルとその御使たち」と争って天から投げ落とされました。

主の御使
「主の御使」という言葉が聖書(新欽定訳)に68回出てきます。ある時には、ダニエル、ザカリヤ、そしてマリヤに現れたガブリエルに充てられています。しかし、ガブリエルは「an」angel of the Lord(ルカ1:11)と呼ばれていて、「the」angel of the Lordとは呼ばれていません。また御使のかしらとも呼ばれていません。(ついでですが、有名な天使ラファエルは聖書のどこにも登場しません。)ガブリエルは、おそらく神の御座のすぐ側のふたりの守護のケルブのうちのひとりでしょう。ガブリエルがゼカリヤに「わたしは神のみまえに立つガブリエルであ」ると言ったことを思い出してください。ルシファーはかつて堕落する前は、もう一方の位置にいました(エゼキエル28:14)。もし御使の最高の地位が神の御座の側にある守護のケルブの地位だとするならば、御使のかしらとは、誰であり、何なのでしょうか?人間の救いに関して顕著な役割を果たすこの力強い「主の御使(the angel of the Lord)」とは誰なのでしょうか?

父なる神は、すべてのものをイエスをとおして創造されました(へブル1:2、エペソ3:9[欽定訳では「イエス・キリストによって万物を創造された神の中に」とある])。もし、キリストが人類を救うために、一人の人間となってサタンと戦うために地上に来られたなら、彼は、天においてもサタンの悪影響から民を守るために天使として自らを同一視されることは信じがたいことではありません。事実、キリストがこの地上で受肉する前に、神秘的なお方、すなわち「主の御使(the angel of the Lord)」として聖書に幾度か登場します。そのようなお方として言及されているときには、いつもその方がどなたであるかを知る手がかりがあります。では、それらの聖句を順序を追って見てみましょう。

ハガル
アブラハムのつかえめであったハガルがイシマエルを生んだ後、彼女と子のいないサラは、平和のうちに共に過ごすことができなくなりました。サラは高慢になった自分のつかえめハガルに対して厳しい態度に出たので、 ハガルは砂漠に逃げてしまいました。「主の使は荒野にある泉のほとり・・・で、彼女に会い」ました(創世記16:7)。御使は、ハガルにサラのもとに戻って従いなさい、そして彼女の息子イシマエルは大きな国民の父となるでしょうと言いました。「使」が姿を消した時、「ハガルは自分に語られた主の名を呼んで、『あなたはエル(意:神は)・ロイ(意:ご覧になる)です』」と言いました(創世記16:13)。ハガルは自分に語られた「主の使」を本当に神と認めていたようです。この聖句をご自分で読むと、はっきりしてくるでしょう。

アブラハム
神は、アブラハムにモリヤの山で息子イサクを犠牲としてささげるように告げました。アブラハムがちょうど約束の息子に短剣を突き刺そうとしたその時、主の使が彼を止めました。「主の使が天から彼を呼んで言った、『アブラハムよ、アブラハムよ』。彼は答えた、『はい、ここにおります』。み使が言った、『わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った』」(創世記22:11, 12)。

アブラハムは息子を神にささげていたのであって、ただの天使にささげていたのではないことは明瞭です。


金持とラザロ

2016年11月28日Tag: 天国

ルカ16:22,23
「この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持ちも死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。」

金持ちとラザロについてのこの話は、字義通りに本当であるか、たとえ話であるかです。それが、おそらく字義通りではあり得ないという4つの理由があります:

  1. 貧乏人は死に、アブラハムのふところへ、天使たちによって連れて行かれました。アブラハムの字義通りのふところが、死んだ義人の住まいであるとは、だれも信じていません。それは、比喩的か、たとえ話の表現です。ところで、天使たちは、聖徒たちを集めますが、マタイ24章31節によれば、それは、死ぬ時ではなく、イエスの再臨で起きます。
  2. 天国と地獄は、淵で隔てられていて、お互いに談話することができました。この話が、救われた人と失われた人の字義通りの本当のことであると信じる人は、おそらく、この世界に誰もいないでしょう。
  3. お金持ちは、肉体をもって地獄にいました。彼は、目・舌などを持っていました。彼の肉体は、墓でなく、どのようにして地獄の火の中へ入ったのでしょうか?悪人の肉体が、死ぬとすぐに地獄へ行くとは、誰も教えていません。この話は、字義通りであるはずがありません。
  4. ラザロの指先を水でぬらし、金持ちの舌を冷やすために、火炎で苦しんでいる自分のところにつかわして下さいというアブラハムへの願いは、明らかに字義通りではありません。どれだけの水分が残っていて、それがどれだけの慰めを与えるのでしょうか?この全体の話は、非現実的で、比喩的です。

金持ちは、疑いなく、たとえ話の中で、ユダヤ人を表わしています。

なぜなら、ユダヤ人だけが、「父、アブラハム」に祈るからです。貧乏人は、真理を受け入れる価値がないとみなされた異邦人を象徴していました。マタイ15章27節において、カナンの女たちは、自分たちがユダヤ人の食卓の貧乏人であることを知っていました。

キリストは、おそらく、たとえ話の中で使うために、ラザロの名前を選ばれました。なぜなら、あとでキリストは、実際に、死人の中からラザロをよみがえらせたからです。そして、このたとえ話全体の最高潮の要点は、31節の中に見られます。「アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえって来る者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。そしてユダヤ人は、ラザロと名づけられた人が、彼らの前でよみがえらされた時でさえ、信じませんでした。


十字架上の強盗

2016年11月28日Tag: 天国

ルカ23章43節
「イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』。」

ある人々は、この聖句から、魂は死後すぐに、報いを受け(パラダイス)へ行くと憶測しましたが、それは他の聖句の記録に全く反します。この推測にある2つのことに注意して下さい。第一に、イエスは強盗に「よく言っておくが、あなたはきょう、私と一緒にパラダイスにいるであろう」と言われましたが、三日後に、イエスはマリアに「私は、まだ父のみもとに上っていない」と言われました。ここに、イエスの父が、パラダイスにいたという証拠があります。黙示録2章7節は、命の木は、神のパラダイスの真ん中にあると言っており、黙示録22章1,2節は、神の御座から順々に流れている命の川の側の、命の木を描写しています。そこで、パラダイスが、父の御座のあるところに位置していることは、疑いの余地がありません。問題は、イエスがその日にパラダイスで父と共にいるであろうと、どのようにしてイエスが強盗に言えたのかということです。そして、その日にイエスはそこ(パラダイス)へ行っていないのです。三日後までは。

第二に、イエスと泥棒は、ちょうど同じ日に、死ななかったのです。ちょうど日没前に、十字架からその体を降ろすために、兵士たちが来た時、イエスはすでに死んでいました(ヨハネ19章32-34節)。泥棒たちは、確かに生きていました。そして、死を早めるためと、逃げるのを防ぐために、彼らの足は折られました。彼らは、疑いなく、安息日の日没過ぎか、おそらくそれ以上、生きていました。ですから、どのようにしてイエスはその泥棒に、彼らが死ななかった「その日」に、彼と共にパラダイスにいることを保証することができたのでしょうか?

英語の聖書が翻訳された時、霊感を受けていない人によって、ルカ23章43節の句読点が、追加されたことを考慮する時、明白な矛盾が、解き明かされます。彼らは、「きょう」という単語の前に、句読点を置きましたが、実際には、それは、「きょう」のあとに置かれるべきでした。そうすれば、その聖句は、「きょう、私はあなたによく言っておく。あなたは、私と一緒に、パラダイスにいるであろう」と、正しく読まれるのでしょう。つまり、イエスが言われたことは、「きょう、私はあなたに保証します。私が誰も救えないと見える時、きょう私の弟子たちが私を見捨て、犯罪人が死ぬように、私が死のうとしている時-しかし今この時、私は、あなたの救いを保証します。」

注意して下さい。泥棒は、その時パラダイスへ連れて行ってくれるように頼んだのではないのです。彼は、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、私を思い出して下さい」と頼みました。その時こそ、彼が覚えられる、天国へ連れて行かれる正確な時なのです。


黙示録20章のゴグとマゴグとは何でしょうか。復活した悪人たちのことでしょうか。

2018年4月1日Tag: 教理

ゴグとマゴグ


黙示録20章のゴグとマゴグとは何でしょうか。復活した悪人たちのことでしょうか。

A.エゼキエル書38,39章にも出てきます。言葉そのものの意味は不明ですが、旧約時代、神と神の民に敵する国々として描かれています。

ゴグとマゴグ

黙示録20章には、千年期のことが書かれています。キリスト再臨の時には、死んだ聖徒の復活と生きている人たちが昇天します(2コリント15:51-55)(1テサロニケ14:13-17)。死んだ悪人は復活しません。彼らは千年期の後に永遠に滅ぼされるために復活します。生きている悪人たちは、来臨の輝きによって滅ぼされます。「その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう」(二テサ 2:8 )。

千年期の時、第三降臨とも言われますが、そのとき、天から新エルサレムと聖徒たちが天から下ってくる時、サタンに扇動された悪人たちが復活して戦いを挑んできますが、天から火と硫黄が降ってきて彼らを焼き尽くします。

回復の過程


コロサイ2:14-16によると、安息日は十字架で廃されたのではないでしょうか。

2019年6月19日Tag: 安息日

A.答え
コロサイ2章14-16節

「神は、私たちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。」

モーセは神ご自身の指によって書かれた十戒以外に、礼典律を与えられました。ユダヤ制度には福音がぎっしり詰まっていた預言でありました。イエス・キリストによって成し遂げられるあがないのひな形であり、影でした。いろんな規定があり、儀式がありました。たくさんのいけにえは、神の小羊であられるイエス・キリストをあらわしていました。また、祭司制度にはいろいろな規定がありました。それらはイエス・キリストだけが神と人類の間の仲保者であることを示していました。

1テモテ 2:5

「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」

それらは礼典律と呼ばれています。十字架にくぎづけられたのはそのようなもろもろの規定です。それらは、贖罪の犠牲であり、新しい契約の大祭司、仲保者イエスが来られたからには不必要になりました。十字架以後は律法は無用という意味ではありません。「私たちを責めて不利におとしいれる証書」、その規定もろともぬり消し、これを取り除いたのは、パウロがそれはクリスチャンに反すると言った理由です。マタイ27章51節をみますと、キリストが十字架で神の子羊として死なれた時に、神殿の中で垂れ幕が引き裂かれ、動物の犠牲制度の律法の終わりを指し示しました。

そして、エペソ2章15節は、イエスが「数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである」と言っています。これが、パウロがコロサイ2章16節に書いた理由です。すなわち、「来るべきものの影である」献げられた肉、献げられた飲み物、安息日について、批評されてはならない。これらは、年毎の安息日であり、道徳律の週毎の安息日ではないことに注意して下さい。これらの影の安息日は、レビ記23章24-27節に記述されています。それらは、毎年、週の違った日、月のある定められた日に、やって来ましたが、安息日と呼ばれました。しかし、37節に気づいて下さい。どのようにして、それらが、週毎の安息日と区別されたかということに。「これらは主の定めの祭であって、あなたがたがふれ示して聖会とし、主に火祭すなわち、燔祭、素祭、犠牲および灌祭を、そのささぐべき日にささげなければならない。このほかに主の安息日があり、・・・」

さて、コロサイ2章16節のなぞは、完全に解明されます。年毎の安息日の律法は、肉と飲み物の献げものと共に、十字架にくぎづけられましたが、週毎の安息日を含む偉大な十戒は、法令を「拭い去る」ことによって、影響されませんでした。


死に至る罪とは?

2019年6月19日Tag: 安息日

Q.質問 1ヨハネ5:16に死に至る罪と死に至ることのない罪という言葉がありますが?

「もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある」1ヨハネ5:16,17。

A.答え

  1. まず文脈から見ましょう。前後関係を見ると。14節、15節、16節 「願い事をする」とき、特に「罪を犯している兄弟のために」願い事をするときのことを言っています。
  2. 死に至ることのない罪を犯している人々を見たら、神に願い求めなさい。いのちを賜るであろうと言っています。
  3. 神はどんな罪でもゆるされる方であるとマタイ12:31に書いています。しかし、ゆるされない罪があるとも書いています。それは何でしょう。
    マタ 12:31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。マルコ3:29
  4. なぜ、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはないないのでしょうか。

ヨハネ16:8を見よう:「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」。

罪を示し悔い改めてゆるされ、命に導くのは聖霊の働きである。どんな罪でも悔い改めるならゆるされる。
ダビデの例、姦淫の女、十字架上の強盗…
幾たびも聖霊が良心に働き続けてく改めさせようという働きを拒み続けるなら、死に至る罪を犯すことになります。

聖霊の絶えざる訴えを拒み続けて死に至る罪を犯した例として挙げられるのは、

  • サウル王があげられます。
  • またイエスを裏切ったユダもそうです。
  • アナニヤとサッピラもそうでした。

誰も多くの過ちを犯し、罪を犯しますが、「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」を最後まで持ち続けることが大事です。使徒20:21
ですから「一テサ 5:19 御霊を消してはいけない」と警告されているのです。