第10課 イエスは今どこで何を?
1.イエスは十字架にかかり、復活し、昇天されてからどこに行かれましたか
「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。」ヘブル1 : 3
2. 大能者の右の座というはどこのことですか
「以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。」ヘブル8 : 1, 2
3. イエスは大祭司として何をなさっているのですか
「しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」ヘブル7 : 24, 25
「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。」ヘブル2 : 17
4. 神と人との間の仲保者は何人いますか
「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」テモテ第一2 : 5
5. 天の聖所と大祭司イエスのことを理解するためには、地上の聖所のことを研究する必要がありますか
「彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、『山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい』と言われたのである。」ヘブル8 : 5
モーセの地上の幕屋、あるいは聖所は天の聖所の「ひな型と影」ですから、天の聖所のことを知りたければ、地上の聖所のことを知れば分かるのです。
6. 天の聖所も、聖所と至聖所の二つの部屋に分かれていますか。二つの奉仕に分かれていますか
ヘブル9 : 1-9を読んでください。
7. 地上の聖所の奉仕は二つに分かれていました。どのような務めでしたか
レビ4章から6章に、外庭のいけにえをささげ、その血を聖所に移す働きは「日毎の奉仕」と呼ばれ、レビ16章で年に一度、その罪を取り除いて清める働きを「年毎の奉仕」と呼ばれました。「日毎のあがない」「最後のあがない」ともいいます。
聖所に罪人の血が移される方法は二つありました。一つは血によって、もう一つは、祭司が肉の一部を食べることによって罪人の罪を負い、聖所に入っていくことによって罪が移されました。
8. 年に一度、聖所に蓄積されていた罪を清める働きについてどのように描写されていますか
「これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。」レビ16 : 29, 30
9. 天の聖所も清められる必要がありますか
「このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。」ヘブル9 : 23
10. 地上の聖所の清める儀式では、ただ、聖所だけでなく、人々も清めることになっていましたか
「この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。」レビ16 : 30
11. 実体の天の聖所の清めには、地上の儀式でできなかったどのようなことが実現しますか
ヘブル10章を読んでください。
「み前に近づいてくる者たちを」「全うする」1節、「罪の自覚がなくなる」2節、「罪の思い出がなくなる」3節、「罪を除き去る」4節、「律法を彼らの心に、思いのうちに書きつける」16節、「罪と不法とを思い出すことはしない」17節
12. キリストの再臨の時に罪が清められることがありますか
「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。」ヘブル9 : 28
「罪を負うため」とは、罪を処理するための意。キリストの再臨の時には、罪を清めることはありません。キリストが大祭司として天の至聖所におられる間に、完全に清められるのです。
13. キリストの再臨を迎える前に、私たちはどのような状態になりますか
「また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。」エペソ5 : 27
「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。」黙示録14 : 1-5
「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある。」黙示録14 : 12
「その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを清める。そして彼らは義をもって、ささげ物を主にささげる。」マラキ3 : 2, 3
「このしののめのように見え、月のように美しく、太陽のように輝き、恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか。」雅歌6 : 10
では、いつイエスは大祭司として至聖所の「最後のあがない」の働きをなさるのでしょうか。そのことについては、第15課で学びます。
イタリアのある都市の市場に、かつて一つの美しい銅像が立っていました。それはきちんとした身なりの気持ちのよい服装をしたギリシャの一奴隷少女の像でした。ある日ぼろをまとい、髪もとかしてないひとりの少女が通りかかりました。少女は銅像の前にくると立ち止まって、賞賛のまなざしでそれをじっとみつめました。彼女は長い間、あこがれの思いを込めてそれを見つめました。そして、急に思いついたように家に帰って、顔を洗って髪をときました。ある日また彼女は、その銅像の前に立ち止まってそれに感嘆し、そしてまた新しい考えをえて帰りました。次の日彼女はぼろぼろの着物を洗って、つぎをあてました。彼女はその銅像を見るたびに、その美の中に何か賞賛したい、まねたいものを発見するのでした。ついに、彼女は全く変ったこどもになりました。私たちはながめることによって変るのです。