カテゴリ:愛

主のまがき

2015年6月6日 icon_002200_16.pngTag: 松田 秀康

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ヨブ記1:10
あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。

【礼拝説教内容】題:「主のまがき」話:松田秀康

今朝は、「主のまがき」と題して、皆さんと共に考えてみたいと思います。ところで、「まがき」とはなんでしょうか?その意味を調べてみますと、「竹・柴などで目を粗く編んだ垣根」とありました。つまり、垣根のことであります。そこで、垣根のことはよくご存だとおもいますが、とりあえず調べてみました。「垣根」は「垣」ともあり、「垣」は、「家・庭・一地域などを、他と区別するために囲ったもの」とありました。世の中には、色々な種類の垣根や囲いがあります。しかし、いずれにしても、他と区別するものであります。また「垣根」は、区別するだけでなく、「保護」する役目もあります。それは、部外者や敵の侵入を防ぐためであります。ここで、聖書を開いて見たいと思います。ヨブ記1:10です。

ヨブ1:10
あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。

ヨブは、主のまがきが設けられていた人物でありました。主の保護のもとにあって、サタンから守られていました。そして、主の祝福によって豊かに祝福された人でありました。

大争闘下 253ページ
キリストに従うすべての者に保護天使がつけられている。これら天からの守護者が、悪い者の力から義人を守るのである。このことは、サタン自身も認めて、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか」と言った(ヨブ 1:9、10)。神がご自分の民を守られる方法について、詩篇記者は、「主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる」と言っている( 詩篇 34:7)

ここで、「まがき」とは「保護天使」であることが分かります。主を恐れ、主に従う者に、神様は保護天使を送って、敵の攻撃から守ってくださいます。ヨブは、その様な人物だったので、彼の周りには主のまがきが張り巡らされ、神様によって守られていました。善と悪は正反対のものであり、交わることはできません。主の守りによって守られているヨブに、サタンは手を出すことができませんでした。
しかし、神様はサタンからの訴えがなされたとき、その主張が間違いであることを証明するために、まがきを一つずつヨブから取り去りました。すると、サタンの攻撃による災いが次々にヨブを襲いました。しかしそのことも、全てをご支配している神様の御手の内にあってゆるされたことでした。その試練は苦しいものでありましたが、しかし、それはヨブをさらに大きく成長させ、神様との深い交わりを得る機会となりました。そして、神様のことをさらに深く知る経験に至ったのであります。皆さんが良く知っておられるとおりであります。

この世では、全ての人がサタンの攻撃の的であります。神の御子である、罪なきお方であったイエス・キリストでさえ、サタンの誘惑や攻撃にあわれました。それは、私たちに模範を示し、私たちを救うためでありましたが、またキリストは、これらの試練を通して、この罪の世の中にあっても罪を犯さず、神の律法を完全に守ることができることを表し、神は愛であることを示して、神に栄光を帰しました。サタンから来る苦難困難、試練であったとしても、それらのものは、全てを支配しておられる全智全能なる神様がお赦しになることであり、全て神の御手の内にあるのであります。そしてそれは神様のご計画の内にあって意図とされ、意味があるのです。それは本人のためでもありますが、周りの人たちのためでもあります。

人が経験するどんな試練でも、主はご自身のために、「神は愛である」ことの証明として用いられるのです。これらの試練を経験したヨブは、その試練によって自分の状態を知り、悔い改め、神様をさらに深く知る経験に至りました。そして、ヨブの経験は、本人やその当時の人たちのためだけでなく、聖書に記されて、後世の人々や、私たちのためにも、現在も用いられているのであります。

祝福の山88
キリストのみたまに満たされた人は、キリストのうちに宿っている。彼をねらう打撃は、ご臨在をもって囲んでいてくださるキリストに当たる。彼に起こることはみな、キリストを経てくるものである。キリストが彼の守り手であるから、彼は自分で悪に手向かう必要がない。主のゆるしがなければ、何物も彼に触れることはできない。そして許されることはみな、相共に働いて彼を愛する者たちの益となるのである。

人類あけぼの上3
反逆が天で始まったそのときから、ついに、それがくつがえされて、罪が完全に根絶されるまでの善悪の大争闘の歴史もまた、神の不変の愛の実証である。

ところで、試練や困難が実際に起こった時にはどうしたらよいのでしょうか?その時こそ私たちはさらに主により頼むときであります。そのときこそ、祈りによって神と交わり、自分の状態をもう一度見直すときであります。全ての事相働きて、万事を益として下さる、愛の神様に感謝したいと思います。

実物教訓153,155
世は、ますます悪化して行くのであるから、自分には、なんの困難も起こらないと楽観することは、だれもできない。実は、こうした困難そのものが、わたしたちを至高者の会見室に導き入れる。わたしたちは、無限の知恵を持っておられる主の勧告を、求めればよいのである。
「悩みの日にわたしを呼べ」と主は、言っておられる(詩篇 50:1 5 )。神は、わたしたちが、自分たちの悩みと欠乏とを神に申し上げ、上からの助けの必要なことをわたしたちが神に訴えることを、神は勧めておられる。・・・・・悩み苦しみに会うものはすべて、神を呼び求めるとよい。冷酷な人々に頼ることをしないで、創造主に、あなたの求めを申し上げなさい。砕けた心をもって、神に来るものは、だれ1人しりぞけられることはない。

ではここで、皆さんよくご存じのよき羊飼いの話から考えてみたいと思います。ヨハネ10:1~16読んでみたいと思います。

ヨハネ10:1~ 16
よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。10:2 門からはいる者は、羊の羊飼である。10:3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。10:4 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。10:5 ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである・・・・・・10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。10:12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。10:13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。・・・・・・・10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。10:15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。

さて、羊飼いはキリストであり、羊は私たちでありますが、ここによい羊飼いの条件が書かれています。それは①自分の羊をよく知っている。②羊の先頭に立って行く。③羊が彼に従ってついてくる。④羊をきちんと養う。⑤羊を命をかけて守る。⑥いつも羊の事を心に留めている。⑦囲いの中にいない羊も導きあわせて、羊たちを一つにまとめることができる。

キリストは、これらの条件を満たしているよき羊飼いであります。つまり、よき羊飼いを一言で言い換えるならば、羊を幸福にする者であるということです。よき羊飼いのもとでその囲いの中にいるならば、羊たちは幸福に平安の内に過ごすことができるのです。
私たちもまた、神様の囲いの中にいるのならば、安全であり、安心です。そこにいるならば、主によって養われ永遠の命を得ることができるのです。キリストは、私たちに決して渇くことのない命の水と命のパンを与えて、私たちを養って下さるのです。
また、良き羊飼いの話には、キリストは囲いの門でもあると書かれています。つまり、憩いの場である囲いの中に入るには、キリストを通して入らなければならず、キリストの内に、真の平安、真の休息があるのです。そしてまた、主のまがきは、キリストにあってこそ成り立つものであるということであります。
そして、羊はよき羊飼いの後をついて囲いの中に入って行きましたが、我々もまた、キリストの御足跡をたどってその中に入っていく必要があります。羊が羊飼いの声をよく知っているから、その後に従ってついて行ったように、我々もまたイエス・キリストをよく知らなければ、彼に従ってついて行くことができないのであります。

ところで、東方の羊飼いは、羊を追いたてないで自ら先頭に立って、羊たちを呼んで引き寄せるそうですが、私たちが主に従うのもまた、強制的な命令から主に従うのではなく、先頭に立って行かれたキリストを模範とし、キリストに導かれながら、主と共に彼の歩まれた道を自発的に従ってついて行くのであります。
さて、馬や羊などの家畜のための垣根は、オオカミや悪しき者からの侵入や攻撃を防いでくれる保護の役目を果たすものですが、もう一つの意味もあります。それは垣根によって、その垣根の中にいる家畜が、誰の所有物なのかが分かるということです。Aさんの垣根の中にいるのならば、その家畜はAさんの所有物であり、Bさんの垣根の中にいるのならば、その家畜はBさんの所有物であるということです。みなさんは誰の所有物で所有物でしょうか?また、今、誰の囲いの中にいるでしょうか?私たちは、主によって造られたものであり、主の所有物であるから、主の囲いの中に入る必要があるのであります。

次にホセア2:6、7をお読みします。

ホセア2:6
それゆえ、わたしはいばらで彼女の道をふさぎ、かきをたてて、彼女にはその道がわからないようにする。
2:7 彼女はその恋人たちのあとを慕って行く、しかし彼らに追いつくことはない。彼らを尋ねる、しかし見いだすことはない。そこで彼女は言う、『わたしは行って、さきの夫に帰ろう。あの時は今よりもわたしによかったから』と。

さて、この聖句にも垣、つまりまがきのことが出てきます。このまがきは、姦淫をした妻ゴメルと、それによって生まれた子供たちが、本来の夫であるホセアのもとに戻るためのものでありました。そのまがきによって彼女は、恋人たちに会う道が分からなくなり、また、自分が本来どうあるべきかを悟り、夫であるホセアに立ち返えることとなったのです。

主はホセアのこの体験を通して、偶像礼拝に陥って姦淫の罪を犯したイスラエルと、ご自分との関係を表されました。それは、浮気をした妻とその子らを許し受け入れるホセアの愛をとおして、霊的姦淫の罪を犯したイスラエルが、悔い改めて神に立ち返るならば、それを許し受け入れる神の大きな愛を表したものでありました。また、妻ゴメルの周りに設けられたまがきは、悪の道へと進むのを防ぎ、本来の姿に立ち返らせました。私たちもまた、自分自身のことだけでなく、家族や他の人々のためにも、主のまがきを祈り求める必要があるのです。私自身も、また家族の者も、朝のまがきを求める祈りによって、どれほど守られてきたかわかりません。最近、草刈をしている時に、ちょっとの差でスズメバチから刺されずに済みました。朝のまがきの祈りを思い出し、神様に感謝しました。このまがきを求める祈りは、単に事故怪我過ちなどから守られるだけでなく、霊的にも悪しき事から守られることも含まれます。子供を持つ親御さんは、ぜひ子供たちの周りにまがきを設けて頂く祈りをしていただきたいと思います。

ところで、神様の領域があるように、実は、サタンの領域もある事を、私たちは覚えて理解し、気をつけていなければなりません。なぜなら、私たちはこの罪の世の中に住んでおり、至る所にサタンの誘惑や罠が仕掛けられているからであります。そして、自ら飛び込んだり、気がつかないうちにそこに入ったりしないようにしなければなりません。サタンの領域は神様の領域とは違い、安全ではなく、真の平安、真の休息はありません。そこには怖れと悲しみ、滅びが待ち受けているのです。どんなにこの世のもので満たされていても、魂は常に飢え渇き、満たされず満足しないのであります。

教会への勧告下 130
もしわたしたちが、あえてサタンの領域に踏み込むならば、彼の力から守られるという保証はない。できるかぎりわたしたちは、誘惑者が自分に近づくすべての道を、閉ざさなければならない。

私たちは、自分自身の力で誘惑者サタンの力に打ち勝つことはできません。なぜなら私たちはこの罪の世の中に住んでおり、また、アダムとエバが罪を犯して以来、罪への傾向を持ってこの世に生まれ、善を選ぶよりも悪の方を選びやすく、そして、知的、肉体的、また、道徳的にも退化した状態だからです。神様は人を神のかたちにかたどって造られましたが、罪を犯して以来、そこからほど遠い存在になったのです。しかし、その様な弱い私たちではありますが希望があります。なぜなら、このような私たちを愛し、ご自分の命をかけてまで救おうとしてくださる、よき羊飼いであられる主なるイエス・キリストがおられるからであります。主が自らこの地上に下ってこられ、ありとあらゆる誘惑に打ち勝ち、最後に十字架におかかりになって、救いの道を私たちに開いてくださったからであります。

希望上145,146
同じように(キリストがサタンの誘惑に勝利されたように)、われわれも誘惑に抵抗し、サタンに離れ去れと強く言うことができる。...

われわれは自分自身を誘惑者サタンの力から救うことはできない。サタンは人類を征服したのである。自分自身の力で立とうとする時、われわれはサタンの策略に陥るであろう。だが「主の名は堅固なやぐらのようだ、正しい者はその中に走りこんで救を得る」(箴言 18:1 0 )。どんなに弱い魂も、この大いなるみ名をかくれ家とするとき、サタンはふるえあがってその前から逃げ出す。

ここに書かれているように、堅固なやぐらである主の御名に走りこむこととは、「イエス・キリストの御名によって命じる。サタンよ退け!」とサタンを叱責することも含まれますが、私たちがその様に主の御名により頼むならば、サタンは私たちの前から逃げ出すのです。主の御名もまた、私たちを守るまがきであります。

ここで、放蕩息子の話から少し考えてみたいと思います。もし放蕩息子が、自分の思いを通すのではなく、父の教えを守り、父の家から出ていかなければ、少なくとも空腹、貧困、孤独、疲労、人間関係などによって苦しみを味わう必要はなかったはずであります。父の家を出た彼は、一時は魅力的な罪を楽しみますが、それは一時的なものであり、本当の喜びや楽しみではありませんでした。神様は、自分自身を知っていると思っている本人よりも私たちの事をよくご存じであり、またこの世の全ての事をご存じであります。そして、私たちを愛して私たちの幸せを願い、本当の幸福を与えたいと思っているのです。神様は強制をなさいません。放蕩息子は自分で父の家を出る選択をしました。その結果父の手の届く範囲、つまり父の保護の囲いから出ることになり、そのために色々な誘惑にあい、罪を犯し苦い罪の結果を刈り取ることになりました。しかし神様は放蕩息子を救うために、また父の家に連れ戻すために、その試練をお赦しになったのです。それは苦しい経験ではありましたが、そのことを通して、彼は自分の愚かさ、弱さ、醜さなど、自分の状態を悟り、また、父の愛を思い出したのです。そして、悔い改めて本心に立ち返ったのであります。父の家に戻った彼は、さらに父の愛を深く知り、本当の幸せがなんであるかを悟り実感したのであります。

''実物教訓155~156
キリストは、ご自分の嗣業である神の選民をサタンの手の中からあがない出すことを、何よりも望んでおられる。しかし、わたしたちが、サタンの外部的な権力から救われるに先だって、サタンの内部的な力から救われなければならない。''

そこで世俗心や利己心、粗野でキリストにふさわしくない性質を清めるために、主は、試練がやってくることをお許しになる。苦難の大水が押しよせてくるのは、わたしたちが、神と、神がつかわされたイエス・キリストを知り、汚れからの清めを熱望するようになるためである。こうした試練を経ることによって、さらに清く聖なるものとなり、幸福になるためである。わたしたちが試みの炉に入る時、魂はしばしば利己心のために暗くなる。しかし、その厳しい試練を忍耐するならば、神の性質を反映して出てくるのである。神が苦難を送られた目的が果たされたとき、「あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる」(詩篇 37:6 )

さてここで、私が確か小学校一年生の頃だったと思いますが、その時体験したことを少し話したいと思います。皆さんは犬は好きですか?それとも猫が好きですか?それとも、どちらも好きではない人もいるかもしれません。私はどちらかと言えば、犬より猫が好きな方だと思います。今うちの敷地には、兄夫婦が買っている犬と、両親が買っている猫2匹がいます。

三育小学校に通っていた私は、帰りはバスで帰っていました。小学校一年生の頃の私は、よく兄と帰っていました。小学校の帰り道には、鎖に繋がれた中型の飼い犬がいました。その犬は、人を見ると鎖いっぱい伸びてよく吠えていました。その横を、私たちは通って帰っていました。その犬は通り道で必ず会う犬でした。しかしその犬は鎖につながれているので、小学生の子供たちはみんな安心して通っていました。ある日、いつものように私は、兄の後ろからついてバス停に向かってその道を歩いていました。兄は、友だちと楽しそうにおしゃべりをしながら、私の前を歩いていました。小学一年の私は、いつものよう兄達の後ろについて歩いていました。兄達の楽しそうな会話をうらやましそうに見ながら、私は独りで歩いていました。そして、ちょうど、その良く吠える犬の所にさしかかりました。もちろん、いつものようにその犬は鎖いっぱい伸びて、私たちに向かって吠えました。私はいつもなら気にせず、犬が届かないところを通って通り過ぎて行くのですが、その時はその犬の所に近づいていきました。

なぜだと思いますか?それは、私の心の中に、自分がこの吠えている犬の頭を撫でたら、きっと兄達は私の方を向いてくれるだろうという気持ちと、こんな怖そうな犬でも触ることができるんだぞという高慢な思いがあったからでした。そして、私は吠えている犬の前に立ち、その頭を撫でるために右手をさし出したのであります。するとどうなったと思いますか?次の瞬間、その犬は私の右手を「ガブッ!!」と噛んだのであります。私は「わーん!!」と大声をあげて泣きました。その声を聞いた兄達はびっくりして、確かに後ろを振り返り、私の方を見てくれました。しかし、その後みんなは私に近づいてくるのではなく、散り散りばらばらに逃げてしまいました。私は犬にかまれて右手から血を流し、独りで大声をあげて泣いていました。すると、その飼い犬の家からお婆ちゃんが棒を持って飛び出してきました。それからお婆ちゃんは「この馬鹿犬が!!」と叫びながら、この噛みついた犬を何回も叩きました。そしてその犬を追っ払ってくれました。それから、その後の記憶は私にはありません。おそらく私は病院で治療したのだと思います。気がついたら右手には包帯が巻かれていました。そして自宅でアイスクリームを食べていたことを覚えています。今でも私の右手には、その時の縫われた傷跡が残っています。

ところで、なぜ私はこの犬に噛まれたのでしょう?その答えは単純です。それはこの犬に近づいて手を出したからであります。この犬が噛みつくことが出来る領域に入り、自ら手を差し出したからです。それで私は噛まれたのです。その犬に近づかなければ決して噛まれることはなかったはずです。これはまた、私の心に高慢な思いがあったから起こったことであります。その罪の思いが、私にその様な行動を取らせたのであります。私は、誰かに強制されてこの犬に噛まれたのではありません。噛まれるつもりはなかったのですが、自ら進んで手を出すという選択をした結果、噛まれて痛い思いをしたのであります。

サタンは罪というものを、大したことのないように見せかけるのです。そして、自分の領域におびき寄せるのです。そしてその領域に入ると「ガブッ!」と噛みつくのであります。私たちはサタンの領域に入らないよう気をつけなければなりません。それは言い換えるならば、神様の領域、つまり、神様の囲いの中に留まっているべきであるということです。選択は私たちに任されています。神様の領域に留まるか、サタンの領域に入るか、選びは本人次第であります。

ところで、私たちの周りに主のまがきが設けられるにはどうしたらよいのでしょうか? パイナップルストーリの著者、オットー・コーニングさんはその本の中で、ヨブの経験からそれを学んだと言っています。それは、ヨブは①自分と自分自身、②自分と他の人々、③自分と神様、④自分とサタン、というこれらの4つの関係が、正しい状態にあって主に服従していたので、主のまがきが設けられていたということです。つまり彼は、①品性において完全で、清い生活を送り、常に潔白な良心と正しい動機を持っていました。さらに②実直かつ公正で情け深く、豊かな愛情の持ち主でした。また、③神を畏れ、こよなく敬愛していました。そして④サタンを憎み、罪を憎んでいました。ヨブは、このように、4つの関係が正しいものであったから、主のまがきの内にあって、サタンは彼に手が出せなかったのであります。

しかし、主の御手の内にあってヨブに試練が許され、所有物、家族、ヨブ自身の身体、これら一つずつから主のまがきが取り除かれていったとき、サタンの攻撃によって災いが彼を襲ったのであります。私たちもヨブのように、それらの4つの関係が、正しい状態にあって主に従っているかどうかを吟味する必要があります。

ところで、キリストがこの地上においでになられたのは、この世に栄光の王国を設けるためではなく、心の中に恵の王国を築くためでありました。それは、魂の救いであり、真の平安、真の命を与えるためでありました。主のまがきの目的も同じであります。この罪の世の中においては、サタンがいるかぎり試練や苦難困難は無くなることはありません。主のまがきは、物理的なこの世の祝福を与えることが目的ではありません。それは、私たちの心や魂をサタンから守り、どんな状態、どんな状況にあっても、主に対する確信を失わないためでであります。

キリストはこの地上においては、この世の祝福にあずかることなく、貧しい生涯を歩まれたお方でありました。しかし、主のまがきによって守られていたお方でありました。なぜならキリストは、どんな状況にあっても天父に対する確信を失うことはなかったからです。主は、嵐にあって今にも沈みそうな船の中でも眠ることができました。また、悪霊に取りつかれた者にあわれたときも動じることはありませんでした。そしてまた、カナの婚礼のときや、五つのパンと七匹の魚で五千人の人々を養わなければならないときなど、様々な窮地の場面においても、天父に対する確信は揺らぐことはありませんでした。また、キリストだけでなく、聖霊のバプテスマをうけて殉教していった弟子たちもそうでした。そして、様々な苦難困難を主にあって経験したパウロもそうでした。どんな状態や、どんな状況にあっても、彼らは、主に対する確信はぶれることはなかったのです。

さて、主のまがきによって、人がサタンの攻撃から保護されることが、現代の私たちにとって、どう関係するのかもう少し考えてみたいと思います。生きて主を迎える14万4千の人々は、主のまがきである保護が必要です。なぜなら、大いなる悩みの時や七つの災いという、霊的、物理的の両方の面において、それを通過しなければならないからです。そのためには、神の印を受ける必要があります。神の印は、日曜休業令という安息日問題のテストに合格する人に印されます。また神の印は、その人が神の所有物であることのしるしでもあります。つまり、14万4千の人々は、真の安息日を守って神の印を押され、そして神の所有物となり、主のまがきによって保護される人々であります。彼らの全ては主のものなのであります。

では、全てが主の所有物とはどういうことでしょうか?それは、地位、名誉、財産、仕事、能力、家族、人間関係、時間、健康、思考、行動、そして、彼らの命に至る全てのものが主のものであるということです。それらのものは本人にはその権利がなく、主に権利があり、私たちは管理人として任されているということであります。つまり、彼らは自分で生きているのではなく、主によって生かされているということでもあります。それはまた、自分よりも主を第一とする人たちとも言えるでしょう。

さてここで、いくつかの聖句を引いて見たいと思います。

レビ記 19:30
あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。

出エジプト記 20:6
わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

詩篇 17:7~9
寄り頼む者をそのあだから右の手で救われる者よ、あなたのいつくしみを驚くばかりにあらわし、 ひとみのようにわたしを守り、みつばさの陰にわたしを隠し、 わたしをしえたげる悪しき者から、わたしを囲む恐ろしい敵から、のがれさせてください。

詩篇 121:7
主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。

最初の2つの聖句は、私たちが神様の戒めを守ることについて書かれています。後の2つのは、神様が私たちを災いから守ってくださることについて書かれています。これらの聖句に共通している言葉は、「守る」という言葉であります。それらの「守る」という言葉は、ヘブル語では、発音は分かりませんが、「shāmar」(シャーマー)という同じ言葉が使われています。これらの聖句は、ヘブル語「shāmar」(シャーマー)でつながっているのです。そのことからつなげて考えてみますと、レビ記19:30にある、「安息日を守る」人は主の「聖所を敬う」人であり、またその人は、出エジプト20:6にある、「神を愛して主の律法を守る」人であり、そしてその様な人を主は、詩篇17:8にある、「ご自身の瞳のように守り」、また、詩篇121:7にあるように、「すべての災いから守って下さる」というのであります。つまり、主のまがきを受ける人は、聖所を敬い、真の安息日を守って、主の律法を守り、そのゆえに主が、ご自身の瞳のように、全ての災いから守ってくださるということであります。

また、この世には様々な規則やルール、法律や法則があります。これらは、それを行うものを保護するものでありますが、主の律法もまた、私たちを悪から守るまがきでもあるのです。主のまがきが設けられている14万4千の人々は、完全に主の律法を守る人々なのであります。

教育76
神の律法は、専横な要求をするどころか、かえってそれは、人類を守るための囲いとして、また楯たてとして与えられているのである。律法の原則をうけ入れる者はだれでも悪から守られる。

MS153、1899年
主はその被造物の周りに保護の壁である彼の聖なる戒めをお与えになった。

そして、もう一つ私たちが忘れてはならない重要なことがあります。それは、14万4千の者たちが、主の恵みによって完全に律法を守り、完全な主のご品性を表わす時、サタンの訴えに対して、彼らが神様を擁護するものとなるということです。

RH1901年4月16日
全天は、神の律法(品性)は聖にして正しく、良いものであることを擁護するのを聞こうと待っている。

5T746
神は彼ら(神の民)を、聖なる律法の保管者として、世に神の品性を擁護するために召されたのである。

つまり、14万4千の者たちは、「神様は独裁者であり、神の律法は完全に守ることができない」というサタンの訴えを、覆す者となるのです。囲いは門につながっていますが、彼らもまた、門であられるキリストとつながることによって、主が恵みのうちにその様に用いて下さるのです。これまで私たちをまがきによって守ってこられた主は、今度はご自身を擁護するために、ご自分のまがきとして、私たちを用いて下さるのであります。

また、囲いにはその造り主の力量とセンスがあらわれます。神様の恵と力によって、14万4千のものたちが、この地上において完全な主の美しい品性をあらわすとき、全宇宙のものは、主のまがきである14万4千の人々の状態をとおして、さらに主のすばらしいご品性とその偉大さを実感することでしょう。そしてそれは、永久に主の愛の証明となるのであります。

何とすばらしい特権ではないでしょうか?その様な大きな特権にあずからせて下さる主の恵みを感謝したいと思います。ぜひこのことを覚えて、今、主のまがきを求め、将来、主のためのまがきとして、主に用いられる器になりたいものであります。


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