なぜ聖霊の賜物を受けられないのか?
2018年12月15日 Tag: 花城 健
Tag: 聖霊-先の雨、後の雨
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*霊感の言葉*
2テモテ2:21
「もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。」
エペソ4:30-31
「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。すべての無慈悲(KJV: bitterness[苦み]うらみ)、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。」
希下158
「キリストは聖霊の賜物をご自分の教会に約束されたが、その約束は、最初の弟子たちと同じようにまたわれわれのものである。しかしほかのすべての約束と同じように、それは条件つきで与えられている。主の約束を信じ、これをわがものと主張する人は多い。彼らはキリストについて語り、聖霊について語るが、何の益も受けない。彼らは天来の力によってみちびかれ、支配してもらうために魂をあけわたそうとしない。われわれが聖霊を用いることはできない。みたまがわれわれを用いてくださるのである。みたまを通して、神は民のうちに働き、「その願いを起させ、かつ実現に至らせ」てくださるのである(ピリピ2:13)。しかし多くの者はこれに従おうとしない。彼らは自分で自分を支配したいのである。これが、彼らが天の賜物を受けない理由である。みたまは、へりくだった心で神に仕え、そのみちびきと恵みを待ち望む者にだけ与えられる。神の力は彼らが求め、受けるのを待っている。この約束された祝福を信仰によって求める時に、ほかのすべての祝福は次々と与えられる。」
ミニストリーオブヒーリング455
「わたしたちが試練に耐えるように召されている事実は、主イエスがわたしたちの中に発達させようとお望みになっている、尊いものがあることを認められていることを示している。もし、わたしたちの中に神のみ名の誉となるものが一つもないとわかれば、わたしたちをりっぱなものにする時間を費されないであろう。神は無価値な石を神の炉の中に投げ入れられることはない。神が精練なさるのは価値のある鉱石である。かじ屋は金属の品質を知るために鉄や鋼を火の中に投入する。神はご自分がお選びになった者が悩みの炉の中に投げ入れられるのを許し、彼らがどんな性質を持ち、神の働きのために適当かどうかをためされるのである。
陶工は粘土をとって好きなように形を作る。それをこねて細工し、ちぎったり、かためたり、ぬらしたり、かわかしたりする。そしてそれを、しばらくそのままにしておく。こうして全くしなやかになったときに、また手を入れ、器を作る働きをつづける。彼はそれを形作り、ろくろで不要な部分を落して磨く。彼はそれを日光にかわかし、かまどで焼く。こうして初めて使用に適する器となるのである。偉大なる創造主はこのようにわたしたちを形づくろうと希望されている。ちょうど陶工の手の中の粘土のように、わたしたちも神のみ手のうちにあるべきである。わたしたちが陶工の仕事をしようとしてはならない。わたしたちのなすべきことは作り主によって形づくられるように自分をその手にゆだねることである。」
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