力と栄光

2016年7月9日 icon_002200_16.pngTag: 金城 マーク


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*霊感の言葉*

「天の神が我々を抑制されない食欲の放縦から生じる悪から守るために健康改革の光をお与えになったのは神の愛によるのである」
食事と食物に関する勧告227

【内容】

主の祈りご存知ですよね。最後の部分でキリストはこう言われました。口語訳にはありませんが、「国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」

山上の垂訓でキリストは「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイによる福音書 5:3 )
と言われました。

国と「力と栄え」とは神様のものです。キリストは私たちにもその王国を与えようとされます。私たちを祭司として神の力と栄光を受けよと言われます。

しかし「心の貧しい人たち」と、この「力と栄え」とは一見、相反しているように見えます。

今朝、この事について考えてみたいと思います。

アルフレッドという1833年生まれの少年がいました。お父さんは物作りが得意で、商売は上手ではありませんでした。会社を何度も潰してしまい、家族は貧しかったのですが兄弟姉妹は7人いました。女兄弟は全員病気で死んでしまいました。アルフレッドたちは一生懸命働きましたので、勉強はあまりできまんでしたが、彼は特に化学が好きでした。そのほか英語、フランス語、ロシア語なども習得しました。

アルフレッドは大人になって自分で事業をしてそれを兄弟で支えました。ついに成功して有名な会社になりました。ある時、アルフレッドの会社の工場が爆発し、弟や従業員も死にました。50歳代の時には世界でも有名でとても人生が安定していました。ある時、弟がフランスを訪問していた時、死んでしまいました。それがフランスの新聞に掲載されましたが、間違いでアルフレッドが死んだと記事が出ました。見出しは「死の商人が死んだ」と出ました。アルフレッドは自分が周りからこんな見方をされていたと初めて知りました。実は彼は、ダイナマイトのアルフレッドノーベルでした。彼は世界中に武器を作る工場を90ほど持っていました。1895年、彼が死ぬ前の年、遺書によって「財産はノーベル賞基金にするように」と残しました。彼は財産を有効に使ったと思います。今となってはノーベル賞はダイナマイトよりも、良いイメージとして有名です。

ダイナマイトは「ドゥナミス」というギリシャ語からです。新約聖書の主の祈りの「力」は同じ「ドゥナミス」です。また、キリストの復活の力も同じ「ドゥナミス」です。

「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。 もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。」コリント人への第一の手紙 15:12-22

キリストの復活は、私たちのキリスト教会の最も重要なの教理です。この復活があったからこそ、クリスチャンには希望があるのです。私たちは罪人としての絶望の中にこの希望が輝いています。別れた肉親との再会も希望です。

''「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。」
テサロニケ人への第一の手紙 4:16-18''

キリストの復活が無いなら、これはあり得ません。これは、理論としてだけではなく、生活に当てはめるべきです。

ノーベルのダイナマイトは興味深いものです。その材料は昔からあり、当時はニトログリセリンを爆発物として使えるかもしれないということはわかっていましたが、それを上手に使うことが出来なかったのです。ノーベルはニトログリセリンと粘土のようなものを混ぜて安定させたのです。導火線によって爆発させる方法を思いついたのです。

怒りやすい人はニトログリセリンのように精神が安定していません。医学的には、常に怒りっぽい人は4倍心臓病にかかりやすいともあります。

カインも怒りのあまりアベルを殺して最初の殺人者となりました。エサウは自分の食欲を制しなくて長子の特権を失いました。ルベンは沸き立つ水、不安定な水であったと聖書に書いてあります。このように彼らは自分の不安定な感情によって罪を犯しました。

ニトログリセリンを安定させるために粘土が必要だったように、クリスチャンの不安定なところに聖霊の力によって安定させなくてはなりません。

キリストの弟子たちも、ペンテコステの聖霊降下の前には、心へりくだり、祈り、共に一致して集まらなくてはなりませんでした。

「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、」ピリピ人への手紙 3:10

キリストの復活について知りたいなら、キリストの苦難にあずかり、キリストの死の様と等しくならなければならないのです。そのためには、キリストの品性を得なくてはならないのです。

ここまではキリストの「力」について学びました。

次は「栄えについて学びましょう。

栄えは品性と関連しています。
「モーセは言った、「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください。」出エジプト記 33:18

神様は誰も私の栄光を見たら生きておけないと言われました。しかし、神様はモーセに答えられ、彼を岩の裂け目に隠し、手で覆われてそこを通り過ぎられました。その時にご自分の後ろ姿をあらわされました。

「主は言われた、『わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ』。 また言われた、『しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである』。 そして主は言われた、『見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。 わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。 そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう。』」出エジプト記 33:19-23

神様はご自分の品性をこのように表現しておられます。

「主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、 いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者。」出エジプト記 34:6-7

神様はモーセの前を通り過ぎられた時、神様ご自身をこのように表現されたのです。
あわれみだけではなく、正義の神でもあられるのです。そこでモーセは地に伏して神様を拝しました。
ご栄光は、義そのものでした。クリスチャンがみ国を受け継ぐためには、「力と栄光」を受けねばなりません。つまり、神の品性を我が物にしなくてはならないのです。キリストの品性なしでは、ニトログリセリンのように不完全、不安定です。「力と栄光」の混ぜ方にも興味深いことがあります。

光があるところには常に熱があります。だから太陽も暑いのです。

しかしホタルは熱を発さない発光が出来ます。これをフランスの科学者がルシフェリンを使って発行することを発見しました。ルシフェリンはルシファーから来ます。

「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。 あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、 雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。」イザヤ書 14:12-14

ルシファーは権力は求めましたが、キリストの品性を求めませんでした。
「その輝きは光のようであり、その光は彼の手からほとばしる。かしこにその力を隠す。」ハバクク書 3:4

欽定訳聖書では、「脇腹から光がほとばしる、かしこに光を隠す」という意味です。キリストの脇腹には何がありますか?十字架の時に刺された傷跡です。それがキリストの力、自己犠牲の愛なのです。ルシファーは力を欲しがりましたが、このキリストの自己犠牲の愛の精神は欲しませんでした。

「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」マタイによる福音書 7:22-23

キリストの品性が無い、いわば力だけの状態では大変危険です。

初代文集より
「イエスとともに立った人々は、至聖所のイエスを信仰をもって仰いで、「わが父よ、あなたの霊を与えてください」と祈るのであった。すると、イエスは、彼らに聖霊を注がれた。その息吹の中に、光と力、そして多くの愛と喜びと平和があった。」

これが霊的力が安定した状態です。ところが現代の真理を知らないで至聖所におられるキリストに祈っていなければ、どうなるでしょう。

初代文集
「わたしは、御座の前でまだ頭をたれている人々を見ようと思ってふりかえった。彼らは、イエスがそこを去られたことを知らなかった。サタンは御座のそばで、神の働きを行おうとするかのように見えた。わたしは、彼らが、御座を見上げて、「父よ、あなたの霊をお与え下さい」と祈るのを見た。するとサタンは、彼らに汚れた力を吹きこむのであった。それには、光と多くの力とがあった。しかし、あたたかな愛、喜び、平和はなかった。サタンの目的は、神の子供たちを欺いて、彼らを引きもどし、惑わすことであった。」

サタンが自分に従う者たちに与える影響には、「力」があったのですが、平和は無かったとあります。
つまり「光と力」のようなものはありますが、キリストの品性はない、偽のリバイバルです。

キリストの愛とあわれみ、情け深さ、同情心がなければ、その「光と力」は人に害を与える者にしかなりません。
光と熱を両方持つことを神様は求められます。この世界を変えることが出来る力は、神様から来なければなりません。

また別の極端もあります。その逆の状態です。世の人たちは「愛、喜び、平和」ばかりを求めます。セブンスデーアドベンチストでも誤った方向に行く傾向もあります。

私たちの教会には道徳的な氷山がある、見せかけだけの形式主義者がいるとホワイトは言われました。心にキリストのご臨在なければ、宗教儀式は冷たい光に過ぎないのです。まるでルシフェリンのように、それはサタンからの光に過ぎません。

終末の時代には、そのよう事がはびこるでしょう。そのような罠に注意しなければなりません。
たしかに安息日、終末の預言、エレンホワイトの証の書、そこには多くの光があります。しかし、冷たい光にはなっていないでしょうか?
それが氷山なのです。そのような者にならないようにしたいと思います。
真理を知り、預言を知り、1日1時間費やして、特にキリストの最後の生涯について瞑想しましょうとエレンホワイトは勧められています。そこにキリストの力の秘訣が隠されているからです。皆さんが「キリストの力と栄光」を受けることをお祈りいたします。


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