永遠の命に入るために何をすべきか・続編

2019年8月3日 icon_002200_16.pngTag: 大城 築


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*霊感の言葉*

ヨハネによる福音書 3章16節、17節
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」

各時代の大争闘下巻224
自分たちの名がいのちの書にとどめられることを願うものはみな、今、残り少ない恩恵期間のうちに、罪を悲しみ、真に悔い改めて、神の前に身を悩まさなければならない。われわれは、心を深く忠実に探らなければならない。多くの自称キリスト者がいだいている軽薄な精神は、捨て去らねばならない。われわれを打ち負かそうとする悪癖に勝利しようとする者は、みな、はげしく戦わなければならない。

各時代の大争闘下巻215~216

キリストの血による勝利
真に罪を悔い改め、キリストの血が自分たちの贖いの犠牲であることを信じたものは、みな、天の書物の彼らの名のところに、罪の許しが書き込まれる。彼らは、キリストの義にあずかる者となり、彼らの品性は、神の律法にかなったものとなったので、彼らの罪は、ぬぐい去られ、彼ら自身は、永遠の生命にあずかるにふさわしいものとされるのである。

各時代の大争闘下巻227~228
どうして罪というものが起こったのか、なぜ罪があるのかということは、多くの人々の心を苦しめる問題である。人々は、悪の働き、その恐るべき結果である不幸と悲しみを見て、いったいなぜ限りない知恵と力と愛であられる神の主権の下にこうしたすべてのことが存在するのかと疑問をいだく。人間の説明できない神秘がここにある。・・・・・・・

罪の存在を理由づけようとして罪の起源を説明することは、不可能である。しかし、罪の起源についてもその処分についても、悪に対する神のすべての取り扱いの中に、神の公義と憐れみが完全にあらわされているということに関しては、十分に理解できるのである。聖書の中に何よりもはっきり教えられていることは、罪が入ってきたことに対して神にはなんの責任もないということ、すなわち神の恵みが独断的にとり去られたり、神の統治に欠陥があったりしてそれが反逆の発生のきっかけになったのではないということである。罪は侵入者であって、その存在については理由をあげることができない。それは神秘的であり、不可解であって、その言いわけをすることは、それを弁護することになる。

箴 8:13
主を恐れるとは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、偽りの言葉とを憎む。

箴 8:35
それは、わたしを得る者は命を得、主から恵みを得るからである。

箴 8:36
わたしを失う者は自分の命をそこなう、すべてわたしを憎む者は死を愛する者である。

祝福の山 148~149
キリストは、ご自分が代わって死なれた魂を決してお捨てにならない。人はキリストを離れ、試みに負けることもあろう。しかしキリストは、ご自分の命をもってその代償を払われた者から、お離れになることはない。もし霊の目が開かれるならば、多くの魂が圧迫され悲嘆にくれて、ちょうど荷車が重い束を積まれて押しひしがれているように、死ぬばかりになっているのを見るであろう。わたしたちは、天使が、危機にひんしている、これらの試みられる者を助けるために、すみやかに飛びかうのを見るであろう。天からのみ使いたちは、これらの魂を取り囲む悪の勢力を押しかえし、彼らを導いて、その足を堅い基の上に置くのである。2つの勢力の間に戦われる戦いは、この世の軍隊によって戦われる戦いと同様に現実的であり、この霊的闘争の結果に永遠の運命がかかっている


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義認-聖化-完全