死んで主と共に生きる

2019年4月20日 icon_002200_17.pngTag: 金城 重博


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*霊感の言葉* スタディーバイブル新337

多くの人が生きたまま葬られる―新生は、この時代にめったに見られない経験である。これが、教会の中に余りにも多くの困惑が存在する理由である。キリストの名を帯びている非常に多くの人が、清められておらず、汚れている。彼らはバプテスマを受けたが、生きたまま葬られたのである。自我が死んでおらず、それ故に、彼らはキリストにある命に新たによみがえっていない(MS 148, 1897年)。

実物95
ある人びとは、つねに、天の真珠を求めているように見えるけれども、彼らは、自分たちの悪習慣を全く放棄していない。彼らは、キリストが彼らの中に生きてくださるために自己に死ぬことをしない。彼らが高価な真珠を見いだすことができないのはそのためである。彼らは、まだ、汚れた野心や世の快楽を愛する心に勝利していない。彼らは、キリストにならって十字架をとって、克己と犠牲の道を歩かない。九分通りクリスチャンではあるが、完全なクリスチャンになっていない。天国に近いようではあるが、天国にはいることはできない。完全ではなくて、九分通り救われていることは、九分通り失われていることではなくて、完全に失われていることである。

初代文集214
キリストの名を唱え、彼が速やかに来られることを待望していると主張する人々の多は 、キリストのために苦しむことが何であるかを知らない。彼らの心は、恵みによって和らげられず、自己に死んでいないことが、しばしば、いろいろな点であらわれる。それと同時に、彼らは、試練に会っていると言っている。しかし、彼らの試練の主な原因は、和らげられていない心であって、それが利己心を敏感にし、しばしば傷つくのである。もしこのような人々が、キリストの謙遜な弟子、真のキリスト者になることが何であるかを自覚したならば、熱心に働き始め、正しい出発をすることだろう。彼らは、まず、自己に死んで、常に祈り、心のすべての欲情を制するであろう。兄弟がた、自信と自己満足を捨てて 、柔和な模範のおかたに従っていただきたい。イエスを常に心に宿して、彼をあなたの模範とし、彼の足跡に従っていかなければならない。信仰の導き手であり、またその完成者であられるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍ばれた。彼は、罪人らの反抗を耐え忍ばれた。

7MR25
我々の生涯は自己と罪に死ぬことが絶えず続く。


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