クリスチャンの参加すべき競争

2019年1月12日 icon_002200_17.pngTag: 金城 重博


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*霊感の言葉*

患難から栄光へ上333-335
競走は、厳しい規則に従って行われ、それに対して不服の申し立てはできなかった。賞をめざして競走に参加したいと望む者は、まず、厳格な準備訓練を受けねばならなかった。食欲にふけること、あるいはそのほか、精神的肉体的活力を低下させるような楽しみは、すべて堅く禁じられた。強さと速さを競うこうした試合に勝利しようと望む者は、その筋肉が強く、柔軟で、神経は十分な抑制の下になければならなかった。すべての行動が確実で、その一歩一歩は、迅速で確かなものでなければならなかった。肉体の能力は、最高の標準に到達しなければならなかった。

競走の選手たちが、待ちかまえた観衆の前に、姿を現わすと、彼らの名が発表され、競走の規則が明示された。それから彼らは、いっせいにスタートした。観衆がじっと見つめていると思うと、彼らは勝利への意欲をかきたてられた。審判たちは、ゴール附近に席を占めて、競走の最初から最後までを見守り、真の勝利者に賞を与えようとした。もしだれかが、不正な手段によって一着になっても、賞は与えられなかった。

こうした競走には、大きな危険が伴っていた。肉体的な恐るべき負担から、二度と回復しない者もあった。走っている途中で、口や鼻から血を出して倒れることもまれではなく、時には、選手が、賞をつかもうとした時に倒れて死んでしまうこともあった。しかし、一生残る障害や死の可能性も、勝利者に与えられる栄誉と比較するならば、大きすぎる危険とは考えられなかったのである。勝利者がゴールにはいると、大観衆の拍手がわき起こって周囲の丘や山に鳴りひびいた。全観衆の注目する中で、審判は彼に、勝利の象徴である月桂樹の冠と、右手に持つしゅろの枝を手渡した。彼は国中でほめそやされた。彼の両親には栄誉が与えられ、彼の住んでいた町でさえ、このように偉大な選手を生み出したことを称賛された。

パウロは、こうした競走を、クリスチャンの戦いの比喩として引用し、選手が競走に勝利するために必要な準備―準備訓練、節食、そして節制の必要― を強調した。「しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも 節制をする」と彼は断言した。競走する者は、体力を弱める傾向のあるあらゆる楽しみを捨て去り、厳格な不断の訓練によって、筋肉の強さと耐久力をきたえ、いよいよ競技の日が来たならば、できる限りの力をふりしぼるのである。ましてクリスチャンの場合は、自分たちの永遠の利益がかかっているのだから、食欲と情欲を理性と神のみこころに従わせることが、どんなにか重要なことであろう。決して彼は、娯楽やぜいたくや安逸に心を奪われてはならない。彼のすべての習慣と情欲は、最も厳格な訓練の下におかれなければならない。神の言葉の教えに照らされ、聖霊の導きを受けた理性が、支配権を握らなければならない。

クリスチャンは、このようにした後で、勝利を得るために全力をつくさなければならない。コリントの競技において、競走者 たちは、その最後の数歩のところで、速度を落とさないように、死に物狂いの努力をした のである。そのように、クリスチャンも、ゴールに近づくにつれて、競走の最初よりも、さら に大きな熱意と決心をもって前進するのである。……

同336
ヘブル人への手紙の中に、永遠の命を得ようとし ているクリスチャンの競走の特徴は、一意専心その目的に向かって進むことだと指摘されている。「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル12:1、2)。ねたみ、悪意、邪推、悪口、 貪欲などは、クリスチャンが永遠の命をめざす競走に勝利するために、捨て去らなければならない重荷である。われわれを罪におとしいれ、キリストのみ栄えを汚すような習慣や行為は、みな、どんな犠牲を払ってでも捨て去らなければならない。天の祝福は、正義の永遠の原則を犯している人に与えられることはない。一つの罪でも心に抱いているならば、品性を堕落させ、他の人々を誤った道におとしいれるのに十分なのである。


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