天の宝

2016年10月29日 icon_002200_16.pngTag: 松田 秀康


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*霊感の言葉*

マタイ6:19-21
「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」。

伝道5:19
「また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。これが神の賜物である」。

箴言8:21
「わたしを愛する者に宝を得させ、またその倉を満ちさせる」。

ヨハネ14:6
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。

実物教訓96
「キリストが、高価な真珠である。そして、この天の宝を持つ特権がわたしたちに与えられている」。

セレクテッドメッセージズ181~182
「永遠の宝がイエス・キリストにゆだねられ、イエスはそれを誰にでもお与えになるのですが、多くの人が、キリストに対する信仰を通して与えられる尊い恵みをすぐ見失ってしまうのは、悲しいことです。キリストは、彼を信じ、彼を見上げ、彼につながっている人に天の宝を与えてくださいます。彼は神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、み心のままに無制限に、自由に、天の宝をお与えになります」。

実物教訓327
「金銭は、大いなる善をすることができるから、大きな価値がある。それが神の子供たちの手にあれば、貧しい人の食事、かわいた人の水、裸の人の着物となり、圧迫されている人々の防御となり、病人を助ける手段にもなる。金銭は、困っている人々を助け、他を祝福し、キリストの働きを前進させるために用いてこそ、価値があるのであって、もしそうでないならば、金銭は砂と同様でなんの価値もないのである。死蔵された富は、価値がないばかりでなくて、のろいである。それは、天の宝から人の心を遠ざけてしまうこの世のわなである」。

マタイ13:44
「天国は、畑に隠してある宝のようなものである」。

実物教訓85、87
「人々がその宝を見出すことができないのは、それを自分のものとするまで捜さないためである。…真理の宝を見いだそうと願うものは、鉱夫が地中に隠された宝を掘るように、自分で掘っていかなければならない。中途半端なことではだめである。老いも若きも、神の言葉を読むだけでなくて、隠してある宝のように、祈りとともに真理を探究し、全心を打ちこんで研究することが大切である。…隠された宝の探究に成功しようとする者は、世の物を追求する以上の熱心さをもって追求しなければならない。その愛情と、力量のすべてを探究のためにささげなければならない」。

申命記7:6
「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた」。

【説教内容】

皆さんは宝はお好きですか?嫌いな方はあまりいません。なぜなら宝は価値あるものだからです。

通常は金や銀、宝石ですが、その人にとってそれが宝となるものは人それぞれです。人の価値観の数だけありとあらゆる宝が存在しています。また、宝は目に見えないものもあります。命の宝、時は金なりたいう時間の宝。健康、権力、知恵、知識、これらが貴重なものならば、それがその人にとって宝になります。

「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 あなたの宝のある所には、心もあるからである。」マタイによる福音書 6:19-21

さて、この世の宝は一時的です。壊れたり無くなったり盗まれます。この世の宝は朽ち果てるのです。そこでキリストは天国に宝を蓄えよと言われます。

それは盗まれず、あなたの宝のある所には心もあると言われます。宝は愛情や思い思想などの本人の思いや価値観に大きく影響します。

地上の宝は真の益とはならず、天国の宝こそ益になるというのです。

アダムが罪を犯した時のことから考えましょう。

見るもの聞くもの触るものたべるもの。地上の全てが完全でした。しかし彼の心は満たされませんでした。ふさわしい伴侶がいなかったのです。エバは彼の心を満たし、愛し愛される宝となりました。しかしその彼女が善悪の実を食べることで、アダムは自分も運命を共にすることを決心します。

それから彼は罪を選び、今までの行き方と180度変わり、人類に罪と死がはいってきたのであります。

「アダムは、エバが神の命令にそむき、彼らの忠誠と愛の試練として課せられたただ1つの禁令を犯したことを知った。彼の心に恐ろしい苦闘が起こった。彼は、エバを、自分のそばからさまよい出るままにしておいたことを悲しんだ。〜彼は、他のあらゆるもの以上に尊いものと思っていた賜物を失うことを恐れて、こうしたすべての祝福について考える余裕がなかった。創造主への愛、感謝、忠誠心などのすべては、エバに対する愛の大きさには比べることができなかった。彼女は、彼自身の一部で、別れるなどとは考えてみることもできなかった。土のちりから生きた美しい人間を創造し、彼を愛して、彼に伴侶を与えられた同じ無限の能力を持たれた神は、彼女に代わるものを備えることがおできになることを彼は理解しなかった。彼は、彼女と運命を共にする決心をした。彼女が死ななければならないならば、彼もいっしょに死のうと思った。」あけぼの上44

ここまでの話を聞くと、アダムの愛が素晴らしく思えますが、神がアダムを攻められた時、エバのせいにし非難し、最後は神のせいにして呟くくのです。

人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」創世記 3:12

罪とはだれかのせいにすることです。彼の問題は宝とともにか彼女とともにあり、神よりも彼女を宝としたのでした。

彼女の魅力は彼の心を捉え、彼の人生に影響を与えたのでした。

それでは宝は悪いものですか?いいえ。

「また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。これが神の賜物である。」伝道の書 5:19

「正しい者の家には多くの宝がある、悪しき者の所得には煩いがある。」箴言 15:6

「わたしを愛する者に宝を得させ、またその倉を満ちさせる。」箴言 8:21

神から与えられた宝をどのように用いるかが大切なのです。

次に富める青年の話から考えてみましょう。

「すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」マタイによる福音書 19:16-22

この青年の質問は誰もが答えを聞きたがります。永遠の命のために、あなたの持ち物を皆売払いなさい。そして貧しい人々に施しなさい。という内容でした。

それは自分に与えられている宝を犠牲を払って使いなさい。そして、貧しい人々、困っている必要を感じている人々にそれを差し上げなさいとの事です。

そのためには愛が必要です。ここに見返りを求めない自己犠牲の精神と、誠の愛が形になったものです。これが天に宝を積む事です。

そのためには心を天に向ける必要がありますが、この青年はそれができませんでした。

なぜなら、この世の財産に心があったからです。

キリストがあなたの宝がある所には心もあるからであると言われた通りです。

もう一つこの青年に必要だったのは、キリストに服従する事でした。それは誠の服従であり、神を第一とする義務的でない愛の服従です。そのためには自己を捨てなければなりません。

この世のものなる自己は神に敵対するからです。また、自己が心に存在するならば神を第一と出来ないのです。種に従うためにはじごぎせい、自己否定が必要なのです。

しかし私たちは自分ではそれが出来ません。どうしたら良いてましょうか?

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」ヨハネによる福音書 14:6

道であるキリストを自己犠牲の道、自己否定の道があるのです。それは天への道、さらに永遠にいたる命の道があるのです。またそれは、キリストを信じ受け入れる者に誰でも喜んでそれを与えられます。

まさに救い主キリストこそ、私たちの全てであり私たちの宝となるべきです。

キリストが、高価な真珠である。そして、この天の宝を持つ特権がわたしたちに与えられている。キリスト実物教訓96

ところで地上の宝だけでなく、天の宝も私たちに影響力があります。それは天のみくにに至らせるものです。ザアカイやさうろ、マグダラのマリヤ、サマリヤの女などは天の宝の影響で彼らは悔い改め、生まれ変わった人たちです。

「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」ピリピ人への手紙 3:8-9

天の宝を得るものはこのように変わります。

永遠の宝がイエス・キリストにゆだねられ、イエスはそれを誰にでもお与えになるのですが、多くの人が、キリストに対する信仰を通して与えられる尊い恵みをすぐ見失ってしまうのは、悲しいことです。キリストは、彼を信じ、彼を見上げ、彼につながっている人に天の宝を与えてくださいます。彼は神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、み心のままに無制限に、自由に、天の宝をお与えになります。この世でもてはやされている偉大な人々を重んじ、大切にするのではなく、彼の選ばれた特別の民に、みもとに来て求めるよう、命じられます。そして彼に、命のパンと命の水をお与えになります。その水は彼らの中で泉のように湧きいで、永遠の命に至るのです。セレクテッドメッセージ181〜182

しかし富める青年はこれを受け入れられませんでした。それはこの世の財産が多かったからでした。地上に宝を積むものは天に宝をつむことができないのです。この世の宝が多ければ多いほど、天に目を向けることは困難になります。なぜなら執着心が多くなり余計手放すことが困難になるからです。

ではここでこの世の宝の中天について考えましょう。

①この世の宝には平安はありません。それを守るために不安や心配がつきまとうからです。

物欲はとどまることを知らないのです。ソロモンはすべての宝を手に入れましたがやはりそうでした。そして宝に対する思いが主に対する思いよりもまさるならば、問題なのです。なぜならばそれは偶像となります。

「金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。」伝道の書 5:10

「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」テモテヘの第一の手紙 6:10

②次に宝を持つ動機です。何のために宝を持つのかです。自己中心的な動機ならば、それはその人に悪影響を及ぼします。多くの人が見栄や自己満足のために宝を持ちます。宝は他の人のために用いなければ腐ってしまいます。富める青年は富を貧しい人に与えなかったために、その代わりに永遠の命を失ったのです。

金銭は、大いなる善をすることができるから、大きな価値がある。それが神の子供たちの手にあれば、貧しい人の食事、かわいた人の水、裸の人の着物となり、圧迫されている人々の防御となり、病人を助ける手段にもなる。金銭は、困っている人々を助け、他を祝福し、キリストの働きを前進させるために用いてこそ、価値があるのであって、もしそうでないならば、金銭は砂と同様でなんの価値もないのである。死蔵された富は、価値がないばかりでなくて、のろいである。それは、天の宝から人の心を遠ざけてしまうこの世のわなである。キリスト実物教訓327

③また宝はその人のものではないということです。そのことを覚えて入れば富や宝で自分に栄光を帰すのでなく、神に栄光を帰すようになります。つまり富や宝はそれを持つこと自体が目的ではなく、神に栄光を帰すために与えられているということです。

「見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるものとはみな、あなたの神、主のものである。」申命記 10:14

金銭はわたしたちが、自分に栄えを帰するために与えられたものではない。わたしたちは、忠実な管理者として、神に栄光を帰するために、金銭を用いなければならない。

では天の宝を得るためにはどうしたら良いでしょうか。

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」マタイによる福音書 7:7

天の宝を得るためには探し求める必要があるのです。それは隠されているのです。つまり宝探しです。

「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。」マタイによる福音書 13:44

ところで、皆さんは宝探しは好きですか?

これは好き嫌いがあるでしょう。なぜでしょう?それは必ず宝が手に入るかどうかわかりませんし、棚からぼたもちではなく、努力が必要だからです。しかし、努力してその宝を見つけた時の喜びは忘れられません。

また宝の価値もより大きくなります。これは天の宝探しにおいても同様です。

ここで宝探しに必要なことについて考えてみましょう。

①諦めないで探し続けることです。あと一歩で見つかることもあるのです。情熱や決意が必要です。

②次には宝の地図、情報が必要です。見当違いではいつまでも見つかりません。

③そしてスコップやツルハシなどの道具が必要です。道具の有無で効率が違います。

④さらに健康でなければ宝を探し続けることはできません。

これらのことを天の宝探しに当てはめるとどうなるでしょう。

①熱心に天の宝を得るまでどりょくすることであり、主に頼って前進することです。これは本人自ら探さなければなりません。天の宝は他人から譲渡することはないからです。

人々がその宝を見出すことができないのは、それを自分のものとするまで捜さないためである。…真理の宝を見いだそうと願うものは、鉱夫が地中に隠された宝を掘るように、自分で掘っていかなければならない。中途半端なことではだめである。老いも若きも、神の言葉を読むだけでなくて、隠してある宝のように、祈りとともに真理を探究し、全心を打ちこんで研究することが大切である。こうする人々は、必ず報いられる。それは、キリストが理解力を深めてくださるからである。…隠された宝の探究に

成功しようとする者は、世の物を追求する以上の熱心さをもって追求しなければならない。その愛情と、力量のすべてを探究のためにささげなければならない。キリスト実物教訓85、87

②次に宝の地図ですが、これは聖霊の導きです。この導きがないと決して宝にはとうたつできません。

無限の愛と慈悲によって、天から送られた聖霊は、キリストに絶対的信仰をいだいているすべてのものに、神に関することを啓示する。聖霊は、魂の救いに関する重大な真理を、人の心に強く印象づける。こうして生命の道は、踏み誤ることができないほど明らかにされるのである。キリスト実物教訓89

③次に道具についてです。それは知恵です。道具は知恵の終結したものです。

「鉄が鈍くなったとき、人がその刃をみがかなければ、力を多くこれに用いねばならない。しかし、知恵は人を助けてなし遂げさせる。」伝道の書 10:10

「知恵が身を守るのは、金銭が身を守るようである。しかし、知恵はこれを持つ者に生命を保たせる。これが知識のすぐれた所である。」伝道の書 7:12 JA1955

④それでは健康とはなんでしょう。それは健康な体と奉仕や活動などの行動です。実際に動かなければ宝は見つかりません。それは知識どまりではなんの意味がないのです。

「神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。」ローマ人への手紙 2:6

ところで、数えてみよ主の恵みという賛美歌があります。主の恵みもまた、天の宝です。その宝を主はかぞえてみなさいと私たちに言われます。

なぜ数える必要でしょうか。それは天の宝を数えるなら、私たちの心に天国がはじまるからです。

天国とは永遠の信仰と希望と愛が私たちにやどるところです。なぜならあなたの宝のある所には心もあるからです。天の宝を数えるなら、心も天にある雰囲気につつまれるのです。天の宝は私たちの心に影響を及ぼし心は天の心になるのです。

恵みとは受ける価値がない者に与えられる神の特性です。私たちはこれを理解した時に、喜びと感謝に満たされることでしょう。

宝と心の法則はキリストも使われた法則です。それは、カルバリーの十字架で死に臨みながら、最後の場面でなされました。何も見通すことのできない暗黒の最中で、それまで支えられてきた天父の恵みという天の宝にキリストは信仰によってより頼まれたのです。つまり信仰によって勝利されたキリストの心の支えは、これまで与えられてきた主の恵みの経験でした。きりすの心に天の宝がやどったとき、不安がきえさったのです。

その不安とは、罪のために天父に受け入れられず、永遠に離れ離れになってしまうのではないかという不安でした。

恐ろしい暗黒のさなかに、神に見すてられたようにみえる中にあって、キリストは人間の苦悩のさかずきを最後の1滴まで飲みほされた。その恐るべき時に、主は、ご自分が天父に受け入れられたことについて、これまで与えられていた証拠によりたのまれた。イエスは天父の性格をよく知っておられた。イエスは天父の正義、あわれみ、大きな愛をわかっておられた。父に従うことがイエスの喜びであったが、信仰によってイエスは父に信頼された。こうして、服従のうちにご自分をまったく神にまかせられた時に、天父の恩恵が失われたという意識はなくなった。信仰によってキリストは勝利者となられた。希望下巻278

私たちが数え上げることができない主の恵みもあります。それは主の恵みの中でも、自分が気付かない主の恵みもあります。つまり、自分で探さなければ見つからないのです。

主の恵みを余す所なく数えるためには、隠れているものは探して見つける必要があります。隠れている恵みも主の恵みであり、天の宝がですので見逃してはもったいないのです。

むしろ隠れている、隠されているからこそ、とても貴重な価値があるのではないでしょうか。その恵みを知らずにいることは大きな損失を被る場合もあります。また数においても隠されている宝の方が多いかもしれません。

数えてみよ主の恵みとどうじに、探してみよ主の恵みも大切な事です。

ところで聖書、自然、経験は私たちにとって学ぶべき教科書です。その自然の教科書から探してみよ主の恵みについて学びましょう。

昆虫は世界に百万種類以上います。昆虫にはかくれんぼが上手なものがいます。擬態です。

ゾウゲヨライキリギリスやハナカマキリ。ヒョウモンカマキリやアフリカメダマカマキリなどです。

さて、いろいろな昆虫のかくれんぼを見ましたが、良く目を凝らして注意して見なければなりません。

良く観察するとは何かを見つけるために必要な事です。世の中には同じものをみても気がつく人と気がつかない人がいます。物事に気がつく事は、価値観、ねつい、姿勢、考え方などに影響を及ぼすので大切です。

皆さんは台風が来る時には台風対策をします。しかし知らなければ準備ができません。このように気がつく人と気がつかない人では差が出てきます。

天の宝である主の恵みも良く観察してさごしだし、気付いて見つけた事を感謝しなければなりません。

天の宝探しについて考えましたが、その道のプロは誰でしょうか?キリストです。キリストを模範とするならば、誰でも天の宝を見つけることができるようになります。そのキリストは聖書に描かれています。個人的に人に頼らず、自分で聖書を探求しなければなりません。聖書は真理の宝庫であり、私たちを高めます。

忘れてはならないポイントは、聖霊によって導いていただくために、謙遜に素直に神の言葉を受け入れることです。その際には人間の言い伝えや先入観にとらわれないことです。自分の意見や考えと違っていても、聖霊の導きに身をまかせるのです。

天の宝探しをするのは私たちだけではありません。主もまた天の宝探しをされています。その宝とは私たちひとりびとりの魂です。私たちが救われて、天の宝となるのを望んでおられるのです。人類に対する主の熱意は、ご自身の命をかけるほどでした。なぜそこまでされるのでしょう?それは愛の神だからです。そして私たちは天の宝になるのです。

富める者、貧しい者、高い者、低い者、自由のある人もない人も共に神の財産である。人を救うために自分の生命をお与えになったキリストは、人間の1人1人に測り知れぬ価値を認めておられる。ミニストリーオブヒーリング136

「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。」申命記 7:6

人類は全宇宙の中にある宝でゆいいつ、神の形にかたどって造られた宝です。

天の職人は無価値な材料に時間を浪費されない。彼は貴重や宝石だけを、ザラザラした角を切り捨て、美馬の建物のために磨かれる。その工程は厳しい試練である。キリストは余分な表面を切り捨て、その石を磨き車の下に置き、ざらつきごすっかりなくなるよう、きつく押しつけられる。それから名匠なる主は、その宝石を持ち上げて光に向け、そこにご自分が映っているのをごらんになり、これはご自分の宝石箱に入れるにふさわしいと宣言される。どれほど厳しい者であっても、生きた光で輝くようにさせ、その石に新しい価値を与える経験は、祝福である。スタディーバイブル850

主はさらに最終時代において、最も希少価値のある天の宝を待望しておられます。それは全宇宙が待望している宝です。

「そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。 「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。 その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。」マラキ書 3:16-18

それは生きて再臨を迎える144000の人たちです。この一群こそ、主の宝の中の宝であり、主の御心にかなう者であります。願わくはぜひ皆さん、この天の宝の一員になろうではありませんか。


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